にがくてあまい午後

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第三十七章

籠の鳥ーJAILBIRD-


それから、何度か駆け引きのような挨拶を、メールで繰り返している内に、亜美は赤いストールの本名を掴んだ。

「俺、ホタルって言うの。覚えてる?」

「ううん。本名は?」

「北条瑛一」彼はそう言うと、携帯の向こうでくるっと宙返りしたように思えた。「君の本名、聞いていい?」

「嵯峨亜美」

「いい、名前だ」彼は、またくるっとバク転したように言った。「今度、会わない?」

「いいけど・・・」

「明日、どう?」

「明日は無理」

「なら、いつがいいの?」

亜美は、忙しくカレンダーに目を走らせて言った。「12月5日なら。H駅の、駅ビルで」

「分かった。2時にね」

あはは、と笑い声を残したように、メールは切れた。

亜美は、クローゼットに駆け寄って服を探した。上等な外出着は、もうほとんど桂さんを通じて古着屋に売ってしまっていた。(買わなきゃ・・・)

亜美はその晩、迷ったあげく、ショッピングモールの3Fで、黒とグレイの、オフタートルのワンピースを6000円出して、買った。

12月5日。

赤いストール、いや、瑛一は例によって、少しふらふらした足取りで、H駅ビルの正面口の、亜美の前に姿を現した。手首には、20万はしそうなブルガリの腕時計が光っていた。

「こんにちわ」

「こんにちわ。早いね・・・。」瑛一は、思ったより子どもっぽい声音の、しかし大人びた口調で言った。「どこで、お茶する?」

「2Fの仏風カフェに行きたいな・・・」

「行くしかないね」

亜美と瑛一は、並んで窓際の席に腰を降ろした。いやでも、亜美の眼は手首に惹きつけられた。

「あ、これね」瑛一は、軽く言った。「俺の、商売道具」

「ごめんなさい」

「あはは」瑛一は、また宙返りするように言った。「いいんだよ。・・・おたくだって、なかなかのしてる。・・・ベーでしょう?」

「うん」

「俺さ、こないださ、姫系の女の子ひっかけたの。でも、アニエス・ベーってフランス語、読めないんだ」屈託ない調子で、瑛一は言った。

姫系が何だかは、よく分からなかったが、亜美は調子を合わせてにっこりした。

「ここの雑貨、私好き」

「俺もだよ。・・・あの名刺入れ、どうかな?どう思う?」

瑛一は、すぐ傍にある名刺入れを指差した。表にパリの地図が、印刷されているものだ。

「いいと、思うけど・・・」

「じゃ、それ買う」瑛一は、これまた高価そうな財布から4000円を抜きだした。

「ありがとうございます」店員は言った。

「ありがとう。・・・おたくのおかげで、いい買い物出来たよ」

それから、暫く、亜美と瑛一はウインドーショッピングをしながら雑談した。

「映画も音楽も、読書も好きさ」

「私、『きみにしか聞こえない』って言う、映画が好きで・・・」

「知ってるよ」瑛一は、言った。「あれ、舞台、K市だろ?」

「うん」

「俺、どこの時計屋に勤めてると思う?」

「?」

「K市」瑛一は、携帯を取り出した。「昨日、店長と撮った写真」そこには、今とは全く別の笑顔の青年が映っていた。「俺さ、これ、接客用の顔」

「ふうん・・・」

「今と、違うだろ?」

「違う」

「あんた、気に入ったよ・・・」瑛一は、急に顔を近づけて言った。「また、会おう」

「うん」

瑛一は、ふっと笑顔を見せると、それきり黙って歩いた。・・・亜美も、黙って歩いた。

「さよなら」

「またね」

瑛一と別れた亜美は、ふいに思いついて、5Fの本屋で、「GIRL’S PLAY BOOK」を思い切って買った。

その晩、またメールが来ていた。「今度、来週会おう」亜美はなんとなく寝つかれなかった。

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第三十八章

籠の鳥ーJAILBIRD-


次の日、亜美は熱を出した。

頭が痛い代わりに、体がぼおっとして咳が出る。2Fにわざわざ上がって来た桂さんは、言った。「インフルエンザかもよ。・・・すこし、頑張り過ぎたからね。内科に行って、寝てなさい」

ふとんにもぐっていると、携帯が鳴った。

「瑛一です。元気?12日、会えるかな」

亜美は、ごほごほ言いながらキーを打った。「元気じゃないわ・・・。風邪なの」

「そりゃよくないや。お大事に」

「待って」

「え?」

「会いたくない訳じゃないの・・・。月末、空いてる?」

瑛一は、ちょっと躊躇って言った。「25日なら」

亜美は、勝負に出た。「25日、用事があるの・・・。24日、だめ?」

「いいよ。午後なら。咳、治してね。また、H駅で会おう」メールは、あっさり切れた。


12月24日。

亜美は、白いボンボンのついたニットに、黒いスキニージーンズを着て、H駅で凍えていた。

「やぁ」瑛一は、臙脂色のライダースジャケットで現われた。「似合うね、そのボンボン」

「ありがとう・・・。そのジャケット、素敵」亜美も応えた。

「うん」瑛一は、年相応の笑顔を見せた。「映画でも、見る?」

「ええ」

二人は、駅ビルの6Fに昇った。「何が、いい?」

「ディズニー、きらい?」

「きらい」瑛一は、はっきり答えた。

「じゃ・・・。アクションものは?」亜美は、やけになって出鱈目に「Kー28」のポスターを指し
た。

「いいね。・・・でも、まだ時間ある。食事、しよう」二人は、傍のレストランに入った。瑛一は、メニューを手なれた手つきで指した。「何でも、いいよ」

「ありがとう・・・」亜美は、ノルディックサーモンサンドと、メープルシフォンケーキを注文した。

「俺、ハンバーグと、ティラミス」

「かしこまりました」店員は、にっこりした。瑛一は、ソファに腰を据えて言った。「H市って、穴場だな。この店のスペースの使い方、半端じゃない」

「そお?」

「うん。・・・どうか、した?」

「何でも・・・」

「ちょっと、そのボンボン、さわらせて」瑛一は、白いボンボンを奇麗な指でもてあそんだ。「ふわふわ、してる」亜美は、落ち着かなくなって来た。メニューが運ばれてきた。

「どうぞ」

亜美は、あまり食べられなかった。瑛一は、よく食べた。

「出ようか・・・」

「うん」

Kー28は、混んでいた。映画館の暗闇で、亜美が必死に、科白を追っていると、ふと瑛一は、亜美の手を握って来た。最初弱く、だんだん強く。まるで、抱きしめるかのように。

・・・亜美は、体の中心部がだんだん熱くなり、次に湿ってくるのが分かった。・・・必死にこらえていると、瑛一はふと席を立った。「俺、気分悪い」

瑛一は、暗い通路で、また座り込んだ。亜美は、気の毒になって言った。「どこかで、横になって休もうか?」

瑛一は、頷くと外へ出た。「タクシー、呼ぼう」

「うん・・・」亜美も、頷いた。ビルの外は、暗くなりかけていた。

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第三十九章

籠の鳥ーJAILBIRD-


タクシーは、H市の網の目のような道路を、滑るように走って行った。

「君、ホテル、知ってる?」

「北口の駅前に・・・Mホテルが」

瑛一は、軽く頷いた。「Mホテル、お願いします」

ホテルのフロントで、二人は無言でキーを受け取った。エレベーターに乗り、ドアを開くと、小じんまりした部屋に、洒落た椅子がひとつ置いてあった。

瑛一は、臙脂色のライダースジャケットのまま、椅子に腰を降ろすと、大人っぽい様子で両手を軽く組んだ。

亜美は、言った。「フロントで・・・25才って書いてたよね」

「そうだよ。逆サバ読んでると思った?」瑛一は、免許証をポケットから出すと、亜美の方に放り投げた。

「本当・・・だわ」

「そう。臨床心理士志望だったんだよ。でも、親父が死んで、うつっぽくなって1年休学した。・・・落とし所が、時計屋って訳」

「私は・・・」

「ああ、聞いてる聞いてる分かち合いで」瑛一は、また両手を組み直すと、ベッドに座っている亜美を、きらりとした眼で見た。「そのダイヤのペンダント、いいね」

「これは・・・昔、勝ち組の伯母さんから巻き上げたものなの」

「亜美さんって、どういう人なの?」瑛一の目つきが変わった。

「え・・・。別に、猫してた訳じゃないわ。ただ、可愛がられていただけ、女の人に」

「面白い」瑛一は、静かに呟くと、ジャケットを脱いでベッドの亜美に寄り添った。「なかなかスローでしょ」

「経験、何人くらい?」

「3.5人」瑛一は、静かに躯を横たえて言った。「僕を支えてくれる女性になってくれますか?」

亜美は、くすりと笑った。「そうは、なれないと思う・・・。口うるさい、お姉さんみたいになっちゃうと思う」

瑛一は、シャツををいきなり脱いで、部屋の片隅に放り投げて言った。「そのニット、頑張って脱いで」亜美は、タートルネックを瑛一に手伝ってもらって、必死に裏返して脱いだ。瑛一は、自然と亜美の上にかぶさる形になった。「君、いくつ?」

亜美は、瑛一の首に手をまわして言った。「32年物。重いですか?」

「ううん」瑛一は、亜美の胸に触りながら言った。「大きいおっぱいだなぁ。・・・ねぇ、パイずりって、知ってる?」

「分かる」

「分かるんだ。・・・じゃ、して」

亜美は、瑛一にブラを外されて、何とか彼のペニスを胸の間に、挟んだ。瑛一は、目をうるませて言った。「気持ちいい。・・・もうちょっと、垂直にして・・・」亜美は、ゆっくり躯を動かした。

「ここ、シティホテルだからな・・・。俺、意思強いな」瑛一は、言った。「あそこ、見せて」

亜美は、目を瞑って脚を思い切って開いた。瑛一は静かに言った。「綺麗だ」

「綺麗じゃないよ・・・」亜美は、訳も分からず言った。「そんなことない」

「綺麗だよ」そういうと、もう全裸の瑛一は、指をいきなり突っ込んだ。亜美は、顔をしかめた。「痛い」

「痛い?」

「痛いよ」

瑛一は、ふいに躯を離すと言った。「君のお母さん、病気なんだろう?」

「うん。・・・私の、PCの辿った後、ハッキングしちゃうの」亜美は、急に不安になって、窓の脇に立つとカーテンを少し開けた。瑛一は微笑った。

「ここまでは、ハッキングできないよ。・・・今日は、これでお終い」

亜美は、白と薄いピンクのブラとパンティをつけた。瑛一は、ちょっと嬉しそうに言った。「俺、そういう綿の下着好きなの。また、着てきてくれる?」

「もう、しわくちゃだけど」

「君の体は若い」瑛一は言った。「下着なんか、めちゃくちゃにしてやるよ、今度ね」

二人は、シティホテルを出た。亜美が帰ろうとすると、瑛一は引きとめた。「途中まで、送るよ」暗い道を、亜美と瑛一は黙って歩いた。「キスもしない内に、こんな事になっちゃうんだもんなぁ」瑛一は、ふいに亜美を強く抱きしめるとキスをした。「ありがとう」

「ありがとう」亜美も、ぎこちなく言った。

瑛一は、ふっと笑うと、臙脂色のライダースジャケットのまま闇に消えて行った。

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第四十章

籠の鳥ーJAILBIRD-


その夜、亜美は一通のメールを受け取った。

「二人の、シークレットサイトを開きたい。瑛一」

亜美は、すぐに電話した。

「どういうこと?説明して」

「君、ブログ持ってるだろう?」

「一番、簡単なのなら・・・。日記を書きかけて、途中でやめてしまったけれど」

「なら、話が早い。二人にしか、覗けないブログを作るんだよ。・・・ハンドルネーム、適当に作って。俺は、blue glass」

「私は・・・frosted cat」

「じゃ、サイトの名前はfrosted glassだ。決まった」

亜美は、携帯を片手に、瑛一の指示通りにキーを打った。・・・瑛一は、驚くほどPCの操作が速かった。

「出来たよ」

亜美が、画面を覗き込むと、綺麗な曇りガラスの背景に、一つの詩が打ちこんであった。

「あいしてる

言ったそばから

わからなくなって

もう二度と言わないと

決心する」

「随分ひどいわねぇ」亜美は、かなり大きな声で言った。「これが最初のメッセージ?」

「あはは、怒ると思った・・・。女はみんなこれ言うと怒る・・・。君は?」

亜美は、打ちこんだ。

「あなたは私の杖

あなたは傷だらけのキリスト

あなたは怒れる犬

私は盲いた老人

私はマグダラのマリア

私は黒い猫」

瑛一は、考え深そうに言った。「重いな・・・。かなり重い。しかし、よく見抜いてる」

「わたし・・・」

「ん?」

「あなたの分かち合いの内容、覚えてないの・・・。皆は、『疑念』『恨み』『信仰』というように、すぐ内容がつかめるの・・・。でも、あなたの場合、何も聞こえてこない」

「そりゃ、そうだろう」瑛一は感嘆したように言った。「俺の場合、嘘っぱちしか言ってないからな」

「ねぇ、聞いてもいい?あなたのお父さん・・・どうして、亡くなったの?」

「自殺」瑛一は簡潔に言った。「祖父もさ」

「ごめんなさい」

「いいんだよ。・・・よく、『犬神家の一族』の末裔だって、言われる」

「今度・・・いつ、会えるの?」

「仕事が空いたらね」電話は、ぷつりと切れた。


12月30日。夜。

亜美が、例によって気まずい夕食を取った後、2Fにあがるとけたたましく携帯が鳴った。(瑛一だ・・・)

携帯には、ただこうあった。

「警察が、俺の家に来た。今、カラオケボックスにいる 瑛一」

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第四十一章

籠の鳥ーJAILBIRD-


「俺は、人に危害は加えていない・・・。ただ、家の中のものを蹴散らしたんだ。警官が4人来た・・・」

「その程度?」亜美は返した。「家なんか、警官が4人と救急車が来たわよ」

「呆れたお嬢さんだ・・・」瑛一は、少し調子を取り戻したようだった。「電話、してもいい?・・・カラオケボックスでガンガン音楽かかってるけど」

「いいわよ」

携帯から聞こえる、瑛一の声は、メールよりずっと脅えていた。

「姉貴が・・・。帰省した姉貴二人が、『お前に母さんは任せておけない』って言うんだ。・・・それはないだろう?」瑛一は、半分泣いていた。「もう、店に行けない」

「やくざになったら承知しないわよ」亜美は、はっきり言った。「店にはばれてないんでしょう?」

「やくざになりたくないよぉ」瑛一は、火のついた子どものように泣き叫んだ。

「仕事して、瑛一・・・。仕事してれば、いい服が買えるでしょ?それで、ちょっと食事を奢って、映画館で手を握れば、いい女がほいほいついてくるでしょ?だから仕事、やめないで。・・・もっとも、全然いい女じゃないかぁ・・・あははは・・・」

「言いたいこと、言うねぇ」瑛一は、ようやく手すりに掴まり直したような声で、にやりと言った。

亜美は、心底ほっとした。(よかった・・・元に、戻ってる・・・)

「明日、何とか店まわすよ」

「大丈夫?」

「大丈夫さ・・・もう、家帰るよ・・・。帰りたく、ないけど」

「そうして」

電話は、切れたが、亜美はその晩はさすがに眠れなかった。・・・早朝になって、「frosted glass」の事を思い出し、夢中で書きこんだ。

「あなたと会えて

ハピネス

時計の針よ止まれ

ハピネス

もっともっと逢いたい

こんな人に出会えた幸運に

ハピネス・・・」

12月31日。

あくる朝。「frosted glass」には、瑛一のこんな詩があった。

「あなたが夜更けにひとり

カフェでささやいたうた

わたしが毎日流す

この朝の音楽より

このこころに響いた

今日も私のオーケストラが

ゆっくり開演に向け動き出す」

(よかった・・・立ち直ってる)

夕方まで、亜美は携帯に張り付いていた。ぴったり7時半に、メールが来た。

「何とか、終わった・・・。」

「おめでとう」亜美は、万感の想いを込めて言った。

「ありがとう・・・。だけど、あの家には、もう帰りたくないよ」

亜美は、忙しく頭を巡らした。「私の家に、泊めてあげたいけど・・・父がいるし、第一そこから1時間かかるわ。・・・元旦に、会えない?」

「よし、分かった。大晦日はネカフェ難民するか」

「うん・・・大丈夫?」

「だいじょぶさ。紅白見ながら、メールしような、亜美」

初めて、名前で呼ばれて、亜美は嬉しかった。・・・その晩は、遠距離紅白歌合戦で暮れた。・・・やがて、除夜の鐘が鳴った。

「聞こえるか、亜美?」

「こっちでも・・・」

「亜美がいるだけで、俺は幸せだ」

1月1日。

桜色のニットと、グレイの膝丈スカートで、亜美は、U市の駅前で瑛一を待っていた。

瑛一は、びっくりするほど立派なスーツ姿と鞄で、しかしほとんど千鳥足でU駅に現れた。「おまたせ」

亜美は、黙って頷いた。(これじゃ、神社にお参りどころじゃないわ・・・)

ある決心をした亜美は、瑛一を連れ、駅から少し引っ込んだ、ある場所を目指して、先に立って歩いて行った。瑛一は、驚かなかったがただ言った。「いいの?」

「いいよ・・・」

『ホテルベルサイユ』という、名ばかりの安ラブホの門を、二人はくぐった。

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第四十二章

籠の鳥ーJAILBIRD-


瑛一は、玄関でロフト風の部屋を選んだ。部屋に入ると、古臭い装飾が、かえって二人を落ち着かせた。

「今日は、生理の最終日だから、本当のサービスはしてあげられないの。・・・ごめんなさい」

「いいんだよ」瑛一は、亜美のニットをふわりと脱がせた。「キスして」

亜美は、瑛一の上にかぶさって、彼のまぶたに何度もキスをした。それから、唇をゆっくり接近させた。「風邪止めのキャンディ、舐めてるの」

瑛一は、うっとりしたように言った。「俺にも・・・舐めさせて・・・」

二人は、何度もキャンディを口移しした。瑛一は言った。「甘いよ・・・」

それから、思い切って亜美は体を、ずっと瑛一の下半身にずらした。思い切って、瑛一のペニスを口に含むと、瑛一は笑いながら片腕で自分の目を隠した。「おい」

「気持ちいいんだもの」

「お前なぁ」瑛一はなじるでもなく言った。「何か・・・俺・・・」

「え?」

「嬉しい・・・。亜美、ちょっと俺の上に乗って。下着のままでいいから」

亜美は、ブラとパンティをつけたまま、全裸の瑛一の上に馬乗りになった。瑛一は、激しく腰を動かした。亜美は、恍惚とした。

「これが、SEXだよ、亜美」

「そうなの・・・」

瑛一は、我慢できなくなったように、一気に射精した。・・・それから、放心したように両足を投げ出して座った。「親父の野郎、首吊りやがって」

「どんな、お父さんだったの・・・?」

瑛一は、考えながら言った。「我が儘な人だったな。サラリーマンだったから何とかなってた・・・。接客業って、人に頭下げてなんぼだろ。その代わり、こんな格好してるのさ」

「ふうん」

瑛一は、姿勢を変えると亜美のブラをいきなり外そうとした。「だめ」亜美は言った。

「あはは・・・。つい、獣になりそうになった」瑛一は、体を起こすと言った。「風呂、入れよ。でないと、帰れないだろ」

亜美が、備え付けのボディシャンプーで体を洗っていると、瑛一が呆れたように言った。「ばか!ばれるだろ」

「シャンプーの匂いがすると・・・?」亜美は尋ねた。

「決まってる」瑛一は答えた。「教えがいのあるお嬢さんだ」

二人は、黙って服を着ると、駅前に出た。「ありがとう・・・何とか、帰れるよ」

「よかった」

「そのグレイのスカート、いいな」瑛一は言った。「また、電話する」

亜美が、帰り道で坂道を下っていると携帯が鳴った。確かめると、照れたようなメールが来ていた。「亜美の愛のおかげで、実家に帰れます。ありがとう 瑛一」


それから。

亜美と瑛一は、毎日のようにサイトを更新するようになった。もちろんメールは毎日。電話もほとんど毎日。

10日目に、瑛一は言った。

「俺たちのような人間を排除する社会なんか、糞くらえだ。・・・一緒に来てくれるな、亜美?」

「ええ」

その深夜、亜美はうなされてメールしていた。「瑛一」

「どうした」

「怖い・・・。怖い、夢を見た」

瑛一は電話に切り替えた。「どうしたんだ」

「母が・・・母が、私に悪戯する夢を見たの」

瑛一は、静かな声で言った。「それは悪い夢だ。・・・夢を乗り越えられたのは君の強さだ。もう、忘れてお休み」

「ええ・・・」亜美は、急に深い眠りに襲われながら思った。

(やっと、居場所が、見つかった)

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第四十三章

籠の鳥ーJAILBIRD-


・・・亜美は、もう作業所にはほとんど顔を出していなかった。その代わり、仕事帰りの瑛一と必ず電話した。

深夜に3時間、携帯ごしにお互いに歌を歌っていたこともあった。瑛一は、ビートルズとユーミンが上手かった。亜美が、沢田研二の「時の過ぎゆくままに」を歌うと、瑛一は言った。「エロいな。でもいい」

「疲れてない?」

「いや、遠距離恋愛だもの」瑛一は答えた。「この程度、当たり前」


そんなある日。

瑛一は、風邪をひいた。いや、正確にはインフルエンザで寝込んだ。

「あはは、愛の病かな」

「え?」

「あの、キャンディのせいだよ。・・・亜美、お前まだ少し咳出てたろ」

「うん・・・ごめんね」

「新型だ。2~3日店は休みだな」

それから、何とはなしに二人は映画の話をした。

「『ラスト・ラヴァーズ』って知ってる?」

「いや、知らない」

「あの、女優さん好きだって言ってたから・・・出てるわよ」

その晩。

亜美は、苦しげな電話を受け取った。

「亜美・・・」瑛一は、うなされていた。

「どうしたの?」

「見たんだ・・・『ラスト・ラヴァーズ』」瑛一は、泣いていた。

「あれは、俺だ・・・あんなドラマ、作っちゃいけない・・・」

「どうしたの??」

瑛一は、苦しそうに言った。「俺は・・・何でも暴力で解決して来た。誰にでも、優しくしたいといつも思ってる・・・それなのに・・・最後は」

「・・・・・」

「最後は、女に暴力をふるってしまう」

亜美は、半分泣きながら言った。「瑛一は悪くない・・・。家の、親父だって、人を窓際に飛ばしたり、若い時は女中を妊娠させて棄てたり・・・。みんな、そうやって生きてる」

「亜美」

「瑛一は、不器用なだけよ・・・。皆が生きているように生きのびて、何が悪いの?」

「・・・少し、落ち着いた。ありがとう亜美」

電話は、切れた。

(これで、よかったんだろうか)

(なにか、よくない予感がする)

亜美の家の周りの銀杏の木が、ざわざわと強風に揺られて、音を立てた。雨がざあっと振って来た。亜美は、耳を押えた。

(13階段だ)



注・13階段。ミーティングの規則を無視して、異性関係を持つこと。俗に、「死刑台への階段」とも呼ばれる。

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第四十四章

籠の鳥ーJAILBIRD-


しかし。

亜美の危惧にも関わらず、瑛一のインフルエンザの間、二人は天国の気分を味わった。

瑛一は、家族の写真と、それから昔雑誌に投稿したと言う詩を、わざわざ写メで送って来た。いくつもいくつも。・・・添えられた写真には、今とは正反対の、穏やかな青年が写っていた。

亜美は、送るものがないので、僅かに幼少時の写真を送った。「可愛いな」瑛一は言った。

「俺さ・・・」

「え?」

「お前と暮らしたいよ・・・。でも、あと1年は貯金しないと無理だ」

「そんなこと、しなくても」

「どうする?他に」

亜美は、禁忌を破って言った。「私、貯金があるの・・・500万」

瑛一は呻いた。「どこに、そんな金があるよ・・・。それに、俺は美味い話には乗らない主義だ」

「別に」亜美は慌てて言った。「あやしいお金じゃないわ。・・・年金をこつこつ積み立てていたのよ。私、2級貰ってるから。・・・今は、父の名義になっているけれど」

瑛一は、考え考え言った。「それは、君のお金だよ、亜美。・・・君は十分苦労した。だけど、俺の金じゃない」

亜美は必死に言った。「瑛一が、苦労しないで済むなら・・・。それに、瑛一だって十分頑張ったわ、この1ヶ月、私のために」

「くそ」瑛一は言った。「俺の人生、どう転がるか分かんねぇな。亜美、明日、会えるか?・・・ちゃんと、話し合おう」

「うん」亜美は言った。

瑛一も言った。「現金もキャッシュカードも、クレジットカードも何もかも駅のロッカーにぶち込んで来るよ。でないと、ホテルへ直行だからな」

1月22日。

朝、スポーツブラを身につけようとしていると、瑛一からメールがあった。

「電車に乗り遅れた。君との約束は守る 瑛一」

亜美はメールした。「車で来るの?」

「ああ」瑛一は答えた。「O駅の前で、待っていてくれ」

「あそこ、分かりづらいわよ?」亜美は、不安になって言った。

「どこにいたって、拾ってやるさ」瑛一の声は、ぎらぎらしていた。「待ってろ亜美」

亜美は、例の白と薄いピンクの下着に着替え直すと、グレーと黒のオフタートルのワンピースを着て、髪を整えた。・・・雪が、かすかに降り始めていた。

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第四十五章

籠の鳥ーJAILBIRD-


亜美は、黒いヒールの高いショートブーツで、O駅の雪の中を辛抱強く待った。

「今どこ?」

瑛一は、ハンドルを片手に撮ったらしい写メだけを送って来た。(もうすぐだわ・・・)亜美は、風景の様子から思った。

やがて、白い車が滑るように地下道から姿を現した。亜美は、駆け寄った。

「おまたせ」瑛一の眼は、どこか不安定に光っていた。「乗る?」

「うん・・・」亜美は、ちょっと背筋がぞくっとしたが、乗り込んだ。車の中には、財布もキャッシュカードも出しっぱなしだった。

「できるだけ、安くあげたい」瑛一は、冷たい声で言った。車は、O市のくねるような繁華街に入りこんでゆく。

「こういう所、よく来るの・・・?」

「ああ」瑛一は、指差した。「あそこ、どう?」そのビルには大書してあった。「1時間、2000円」

「いや」亜美は、言った。「隣がいいわ・・・あの、ブティックホテル」

「いいよ」瑛一は、狭い駐車場に車を止めた。「入ろう」

外は、すっかり雪だった。50代のカップルが、出てくるのを見て瑛一は言った。「元気だな」(私たちだって、ひとまわり違うんだけど・・・)と、思いつつ、亜美は黙って瑛一の後についた。

驚いたことに、玄関は自動販売機になっていた。瑛一は、セミダブルの部屋を注文した。

中に入ると。思ったより、清潔ではあったが、部屋は驚くほど狭かった。・・・瑛一が、TVをつけると、出来の悪いAVが流れていた。

「それは、最悪だからやめて」亜美は言った。「ミスチルなら、まだいいけど」

「よし」瑛一は、車の中から持ってきた、ライブビデオをかけた。亜美は、余計気持ち悪くなった。・・・が、もう引き返せない。

瑛一は、いきなり亜美をベッドに押し倒すと、もどかしげにオフタートルから覗いている、サファイアのペンダントが光る首筋に、何度もキスをした。「ガードの固いもの、着て来やがって」

亜美は、不安になってきた。瑛一は、ワンピースをはぎ取るようにして、ブラをずり下げた。そして、ついでに小花柄のキャミソールをずり上げた。そして、顕わになった胸を激しく揉んだ。

「いや」亜美は叫んだ。「こんな、AV女優みたいな格好、いや」

しかし、瑛一は頓着せず、パンティに手を伸ばした。「気持ちいいだろ?」亜美は、泣きそうになった。「よくない」「嘘つけ」瑛一は、冷酷な感じで言った。「びしょ濡れだ」

亜美は、真っ赤になった。・・・瑛一は、構わず下着を全部はぎ取った。「入れるよ」

ナイフで、貫かれたような痛みが、体の中心部を襲った。亜美は喚いた。「痛い」

「その内、気持ちよくなるよ・・・まだ、半分しか入ってない」

「痛いよぉ」

瑛一は、ぐいぐいとペニスを入れて来る。亜美は、恐怖に駆られて思った。

(こんな中途半端な痛み、我慢できない)

(殺されるかも知れない)

(本当に、全部入れられたら気持ちよくなるの・・・?)

亜美は、やけになって叫んだ。「入れて」

「入れて・・・入れて」

「だろ?あれ、乾いちゃったかな」

瑛一は、更にペニスをきつく差し込んだ。・・・激痛で、亜美は気が遠くなった。あまりの痛さにぼんやりしていると、瑛一はやっとペニスを抜いた。

「亜美の穴が、小さすぎて傷だらけになっちゃったんだな」

気がつくと、シーツは真っ赤になっていた。それどころか、ベッドサイドにまで鮮血が飛び散っている。

「処女膜って奴か・・・」瑛一は、もう平然としてコンドームとシーツを丸めていた。「良心的な客と言えるだろう」

亜美は、体を起こした。瑛一は満足そうに囁いた。

「亜美が、『入れて』と言うから、我慢できなかった・・・。もう、風呂入れよ」

亜美が、ぎこちなく狭いユニットバスで体を洗っている間、瑛一は無関心な感じでミスチルのDVDを見ていた。それから、入ってくると亜美の裸を見て、眩しそうに目を細めた。

「あそこ、洗ってやろうか?」血はまだ流れている。

「ううん、いいよ・・・」

亜美が、やっとバスタブから出ると、瑛一はふいに亜美の胸に顔を埋めて、甘えたように言った。「ほっと、した・・・」

「しょうがないなぁ」

亜美は、そう呟くと髪をドライヤーで乾かした。今度は、シャンプーは使わなかった。・・・瑛一は、やっとDVDをしまった。

外を見ると、雪が降っていた。「frosted glassだね」亜美は、曇ったガラスに指を這わせた。

「ああ」瑛一は言った。「車に、戻ろう」

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第四十六章

籠の鳥ーJAILBIRD-


亜美と瑛一は、車の中で黙って、亜美の持ってきたお菓子を頬張った。

瑛一は言った。「美味いな、このマドレーヌ。どこのだ?」

亜美は答えた。「アンリ・シャルパンティエ」

瑛一は言った。「ふうん。・・・俺の親父は、よくくずもち買って来たよ」

それから、瑛一は車のエンジンをかけた。「帰るぞ」

「いや」亜美は言った。「ラーメン、食べたい」

瑛一は言った。「いいよ。門限、何時だ?」

亜美は言った。「夕食、7時」

「よし」瑛一は、勘だけでもう暗くなっている道を出鱈目に走らせた。30分程して、一軒の、古びたラーメン屋が目にとまった。

瑛一は、器用に近くの空き地に車を止めると、亜美にキスをした。それから、二人はラーメン屋の扉をくぐった。

「いらっしゃいませ」

「俺、とんこつチャーシュー麺」

「私、醤油味」

「わかりました」

暫くして、鰹節のかかったラーメンが運ばれてきた。瑛一は、器用に麺をれんげにすくって食べた。

「なぁ亜美」

「え?」

「あの祈り、覚えてるか?」

「ああ」亜美は繰り返した。「変えられないものを受け入れる落ち着きを、変えられるものを変えてゆく勇気を」

「ふん」瑛一は言った。

「信じてるの?」

「・・・俺は、あんなもんだと思って、毎回唱えてる」

「そう」亜美は言った。「でも、あれは女の祈りだと思うわ。・・・変えられないものを変えてゆくのが男でしょ」

「ふん」瑛一は言った。「さて、帰るか」

外はもう真っ暗だった。信号で車が止まる度、瑛一はハンドルから手を離して、不安げに亜美の手を握った。何度も、何度も。

車は、U市に近づいて来た。瑛一は言った。「家の1区画前に来たら、教えろよ」

「うん」亜美は言った。「あのガード下で止めて」

車は、少し車体を斜め倒しに止まった。亜美は、ドアを開きかけた。

「待てよ」

「え?」

瑛一は、強引な感じで亜美を抱き寄せると、ディープキスをした。亜美は、うっとりして舌を入れ返した。

瑛一は、嘲笑うように言った。「こんな事して、まだお嬢様か?」

「ううん・・・。こんな大冒険、初めて・・・」

「やっぱり箱入り娘だ」瑛一は言った。「じゃ、な」

白い車は、コンドルのように姿を消した。・・・亜美は、暫く立ちつくすと、家に、帰った。

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第四十七章

籠の鳥ーJAILBIRD-


亜美は、部屋につくと真っ赤になっている下着を脱いで、浴室で洗濯した。・・・それから、瑛一にメールをしようとして、思いとどまって、ベッドに横たわった。

(苦しい)

(苦しい)

・・・まだ、体の中心部がひりひりする。亜美は思い切って携帯を取った。

「瑛一」

不機嫌そうなメールが来た。「なんだ」

「痛いよ・・・。痛い」

「あのなぁ」瑛一は、途方に暮れたように言った。「俺、明日仕事なんだ。8分なら、相手できる」

亜美は泣きだした。瑛一は言った。「困ったお嬢さんだ・・・。寝るぞ。あとな、髪はセットしとけよ」

あきらめて、亜美は眠ろうとした。・・・だが、眠れなかった。頭の中がぐるぐるした。悪夢さえ、見なかった。

次の日。

亜美は、まだひりつく体を押えて、親友の理子と、U市の図書館で待ち合わせをした。理子は、亜美が引きこもってからも、唯一一緒にお茶を飲んでくれる友人だった。

「亜美ちゃん」

「え・・・?」

瑛一の写真を、携帯で見せられた理子は言った。「いい、男なのは認めるよ。でも、それ・・・」理子は言葉を濁した。

「何?」亜美は聞き返した。

「デートレイプじゃないの?」

デートレイプ。

亜美は、愕然とした。理子は言った。「とにかくさ」

「うん」

「O市には、もう行かない方がいいよ」

「分かった・・・」

亜美は、踵を返すと家に向かった。デートレイプ。

そうかも、知れない。

その次の夜も、亜美は眠れなかった。次の夜も。・・・折悪しく、桂さんは実家に里帰りしていた。何度も瑛一の携帯に電話したが、瑛一は出なかった。自分が段々、錯乱してくるのが自分でも分かった。

亜美は、やけっぱちになってPCを開いた。(確かめてみよう・・・)

K市。時計店。(あった・・・)

それは、瑛一の言った通り、新興チェーン店で、洒落た内装の写真が、携帯と全く同じだった。(店の、専用掲示板がある・・・)

亜美が、息を吸って掲示板に向かった途端、携帯が鳴った。

亜美は、飛びついた。携帯からは、今まで聞いた事もないような瑛一の、静かな落ち着いた声が聞こえた。

「もし、君が僕の店の掲示板に、僕とのことを書いたら、僕は君をストーカーとして訴える。・・・ここ2日間、勤務中に10回ほど君から着信が鳴って、僕は大変迷惑している。・・・25日に、話し合いをする。」

「・・・」

「分かったね?」電話は、切れた。

亜美は、ふと眠り込んだ。ようやく落ち着いて、深く深く。

(あの人は、やはり、臨床心理士志望だったのだ)

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最終章

籠の鳥ーJAILBIRD-


1月25日。

桂さんは、元通りの笑顔を台所で見せていた。亜美は、朝食の味噌汁だけ作ると、部屋に戻って、桂さんのお土産の白いタートルネックのセーターと、グレーのGパンで、正座して瑛一からの、電話を待った。

9時ちょうどに、電話はあった。

「亜美」

「瑛一」

「もう、君とは付き合えない」瑛一は、きっぱり言った。「君のような不安定な女に、俺の人生は任せられない」

「・・・・」

「いろいろ、感謝している」

「待ってよ」亜美は自分が泣いているのが分かった。「そっちだって、泣きながら電話してきた癖に」

「それは、お互い様だ」

「瑛一・・・」

「俺は、店長になる」

「わたし、死ぬ」亜美は、わめいた。「その死をも背負って、俺は生きる。あばよ」

「待ってよ・・・」亜美は必死に涙を抑えながら言った。「最後の、frosted glass・・・」

「見るな」瑛一は言った。「見るなよ」

しかし、亜美はもうPCを検索していた。「今日の未明に、書いたの」亜美は、読み上げた。

「半ば狂いかけていた私を救ったのは

あなたの第三の顔だった

それまで気づかなかった

あなたが詩人であり会社員であると同時に優れた臨床倫理士であったことを

思い出すと

どのカウンセラーのネクタイの下にも

私に対する押えきれない男の激しい衝動があって

それを実行に移しつつ

なおかつ私を病から救い

そしてなおかつ私とあなたの社会的地位を見事にキープしたのは

パーフェクトに若すぎるあなただけだったと

秀でたマッドサイエンティスト達とパワーゲームを繰り広げてきた厄介なクライアントが

若き天才に初めて完敗」

瑛一は、息を吐き出すように言った。「・・・最後に聞く。亜美、君はいくつなんだ?」

「37よ」亜美は破れかぶれに答えた。

「まだ、間に合う」瑛一は言った。「それだけの詩が書けるんだ。自分の幸せは、自分で掴め、亜美」

「瑛一は・・・?」

「俺は、全てのミーティングから縁を切る」瑛一は最初の静かな声で言った。「さよなら亜美」

電話は、切れた。

亜美は、泣きながら思った。(あの、自分勝手で、ならず者で、私を捨てて振り向きもしないあの人が)

(あの人が)

(私の、ハイヤーパワーだったのだ)

(あの人は、私を忘れてしまう・・・もう、戻って来ない)

(でも)

亜美は、涙を拭きながら思った。

(まだ、芳子さんがいる・・・大ヶ丘先生がいる・・・そして、桂さんがいる)

(自分の足で、歩いていこう・・・出来る限り)




注・ハイヤーパワー。信ずべきもの。無条件の愛、人間を超越した理性的存在、神、自然、音楽、などを指す。

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なわとび

Black short short

夫が、首をつった。
 20年ローンの庭付き一戸建てを買って、
引っ越したあくる朝に。
 「俺はもう疲れた」と、一言だけ遺書を残
して。
 あたしたち家族は、毎日毎日、天井のシャ
ンデリアからぶらんと垂れた縄の下で、ご飯
を食べた。次の日も、その次の日も、ご飯を
食べ続けた。
 一週間目に、あたしは思い切って、テーブ
ルの上によじ登り、夫が首に巻いた縄を、よ
うやくの思いで、取った。伸ばしてみたら案
外長い。
 あたしは、縄を両手に持ちかえて、さんさ
んと日の降り注ぐ、広いリビングで、縄跳び
をした。
 「お嬢さん、おはいりなさい。おはいりな
さい。負けたお方は、お出なさい」

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栄光

Black short short

 俺の親父は、頑固者だった。
「何故、こんな事も出来ん!」
 俺は決心した。・・・いつか、T大に入る。
そして、金をがっぽり儲けて、女に何不自由
ない医者になってやる。
 俺はがり勉した。体育はいつも1番だった。
弱い奴は虐めまくった。
 合格通知の春。俺のところに届いた電文は
こうだった。「サクラ、チル」
 そんな筈はないだろう。
 俺は、出刃包丁を片手に、安田講堂に乗り
込んだ。とめてくれるなおっ母さん。
 遠くから、サイレンの音がする・・・警察
か・・・いや、救急車だ。
 20年後。晴れた冬の日。病院を退院する
俺の右手には、親父の形見のブルガリの時計
が燦然と輝いていた。

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優しい

Black short short

  私は、いつも親から周囲から、「優しい子
ね」と言われて育ちました。内心、それがと
ても得意でした。
 大学は、福祉学科を選び、まっすぐに精神
福祉士になり、障害者のお世話を、小さな作
業所でするようになりました。夫は、そこで
知り合ったスタッフでした。
 私は、毎日毎日精神を病んだ人たちを助け
て過ごしました。一緒に、料理をしたり編み
物をしたりしました。私の悪口を言う人は、
一人としていませんでした。
 私は、この上なく幸せでした。半年後、愛
する夫との間に、赤ちゃんを授かりました。
 生まれてきた子供は、精神薄弱児でした。
私は、初めて泣きながら思いました。
「神様の馬鹿野郎。閻魔さまに舌抜かれて
死んじゃえ」

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ぶす

Black short short

 「ぶす」「不細工」と、散々ののしられた
あたしは、やっとの思いで、ハンサムな夫を
手に入れた。有頂天なのもつかの間、生まれ
たのは、自分とは似ても似つかない美人だっ
た。
 悔しい。あたしは、娘に似あわない服ばか
り着せた。「美人、美人ていわれて舞い上が
ってるあんたは、なんて醜いの」
 作戦は成功し、娘はひねくれてみっともな
くなってきた。
 なのに。年頃になった娘は、どこからか不
細工だけど3高の男を連れてきた。
 逆上したあたしは、ウェディングドレスを
ナイフで滅茶苦茶にした。と、「義母さんは
病気だよ。僕が面倒見よう」。娘の夫は、精
神科医だったのだ。
 今、あたしは鉄格子の中にいる。 

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借金

Black short short

 あたしは、20の時、うっかり同窓会の2
次会で、足を踏み入れたホストクラブ通いが、
すっかり癖になり、1000万の借金と一人
娘を抱えて、夫と離婚した。
 あたしは、しゃにむに働いた。昼は派遣、
夜は会社に隠れた水商売。・・・そして、縁
あった人と、ついに再婚した。
 気分は天国だった。あたしは、娘をバレエ
に通わせた。母親に似て、根性のある娘は、
すくすくと育って、ついにプリマになった。
舞い上がったあたしは、新会社を娘のために
作り、全世界に広告をばらまいた。
 世界公演の前日。娘の乗った飛行機は、太
平洋に墜ちた。・・・あたしは、キッチンに
くずおれた。
 金を、返さなければ。

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ウォーキング

Black short short

  30にして、早くもメタボ予備軍に入った
俺は、愕然とした。早速、ウオーキングを始
めなければ。・・・3カ月で20kg痩せる
には・・・。計算すると、会社まで毎日片道
3時間を歩くのが最適だ。
 俺は、頑張った。昼は、会社では殆ど眠っ
ていたが、その甲斐あって、体重は落ち、筋
肉は隆々とついてきた。これなら、憧れのS
さんにアタック出来る。しかし、薔薇の花束
を抱えた俺の目の前で、Sさんは頬を染めて、
社で一番の業績の、デブのハゲのプロポーズ
を、受けた。俺は、床に転げ落ちた。そして、
会社で眠っていた分、余計たるんできた腹の
皮をつまんだ。こいつがいけないんだ・・・
 明日から、会社まで3時間ジョギングしよ
う。

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征服

Black short short

 小学生の頃。俺の夢は、世界を征服して、
第2のヒットラーになることだった。しか
し、俺は先生に叱られてばかりの洟垂れ小
僧で、第3志望の大学にも入れなかった。
 結婚して、ささやかなサラリーマンにな
った俺の次なる夢は、関白亭主になること
だった。しかし、なけなしの勇気を出して、
浮気者の妻を一発殴った途端、弁護士に俺
は「DV亭主」の汚名を着せられて、ム所
行きと相成った。
 狭い独房の中での、今の俺の夢は、そこ
ら中を這いずり回るゴキブリを、何とか征
服する事だ。

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うふふ

Black short short

 あたしは、可愛い子ちゃんと呼ばれて育っ
た。1番目の夫は銀行マンだった。あたしは、
親友を巧みに誘惑して、夫と浮気させ、その
証拠写真を盾に、離婚して慰謝料で、マンシ
ョンを1戸手に入れた。
 次の夫は、医者だった。息子が一人出来た
けど、あたしは上手くマザコン暴力息子に仕
立て上げた。息子に殴られる恐怖に耐えかね
た夫は、あたしと息子をデザイナーズマンシ
ョンに残して離婚した。
 やがて息子は、不良娘を捕まえて、警察沙
汰を起こした。残されたあたしは、泣きなが
らそれをエリート判事に訴えて3度目の結婚
に成功した。豪邸に住むあたしに、もはやラ
イバルはない。

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空腹

Black short short

 俺は、今天才の気分だ。何故なら、絶対に
食物がなくならない方法を考え出したからだ。
 まず、ケーキを半分に切って食べる。次に、
それを更に半分に切る。そしてまた、半分を
半分に切る。・・・こうすれば、何時まで経
っても半分の半分のそのまた半分が残る筈だ。
 なんて頭がいいんだろう。
 しかし。最初の日は満腹だった。次の日は、
少々不満だった。3日目は水を飲んで過ごし
た。そして、4日目は・・・
 どこで俺は間違ったんだろう。誰か教えて
くれないか。

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ボクサー

Black short short

 俺はしがないボクサーだ。少年時代は、ス
トリートファイトで懸賞金をもらって食い繋
いだ。やがて、リングにデビューした俺は、
何度も何度も打ちのめされながら、絶対に倒
れない不屈のチャンピオンになった。
 時は流れる。30になった俺は、いつしか
「テクニシャン」と呼ばれるようになってい
た。そして40歳の時、ついに俺はリングに
倒れた。
 もう、チャンピオンじゃない。ただの、ト
レーナーだ。それでも、俺は名トレーナーと
して名を馳せた。俺は60になっていた。
 最後の試合で、俺は女の弟子を取った。彼
女は善戦の末、負けた。
 俺は初めて、安堵感に包まれて、赤子のよ
うに泣いた。
 「これで、ただの男に戻れるんだ」

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第3次世界大戦

Black short short

 鳩山首相が、進退をかけて出した法案、
「日米安保条約破棄」。これによって、第3
次世界大戦が勃発した。
 俺の、鉄鋼会社は、日本産の戦車を作り、
大成長した。俺は夢見た。「世界は変わる」。
 その、通りになった。
 日本は、必死の抵抗も空しく負けたのだ。
 アメリカは、ついに日本国を合衆国に統合
した。その名も「日本州」。
 俺は戦犯を免れた。
 しかし、俺には、もう漢字の名前はない。
佐藤健ではなく、ケン・サトーだ。毎日英語
で話すんだ。
 左ハンドルの車会社を経営しながら、俺は
今生きている。時折、離婚した妻を思い出し
て、泣く。もう、日本語は2度と話せない。

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会議

Black short short

 「困ったことだ」
 「うむ、困ったことだ」
 「彼らは、自分で何でもできる気になって
いる・・・まるで、我々と同じように」
 「うむ」
 「出来ないからこその、彼らだったのに・
・・。どうやら、我々の『教育』を、真に受
けたようだ。」
 リーダーが、嘆息する。
 「これほど、馬鹿で、幼稚で、己をわきま
えない奴らだったとは・・・。可哀相だが、
もう1度、叩き潰すしかなさそうだ」
 「そうだ」
 「その通りだ」
 いくつか、同意の声があがった。
 「折角、楽園に住まわせておいたと言うのに
・・・。何という、愚かな輩だろう」

 ・・・林檎を食べたアダムとイブに対する、
神様のお話。

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Black short short

 妻が、家を出た。
 俺は、妻の座っていた椅子を捨てた。次に、
使っていた家具を全部捨てた。思い出すとつ
らいので、アルバムの写真は全部綺麗に切り
取った。
 残るは子供だ。
 息子は、妻を思い出してはむずかるので、
遠くの寄宿舎に捨てた。娘は、厄介だった。
面影が妻に似ている・・・。仕方なく、遠い
街のマンションに男と住まわせた。
 そして、夜の夢だ。夢を俺は捨てた。医者
に頼んで、中時間作用睡眠薬を飲んだのだ。
これで、5時間ですっきりと目覚める。
 しかし、起きている時に、妻を思い出すの
は、もうどうしようもない。俺の人生、次は
何を捨てようか・・・。

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美人

Black short short

 あたしは、はっきり言って美人だ。スタイ
ルは抜群。しかも、親はとってもお金持ち。
だ・か・らもてることもてること。
 でも、あたしは不満だ。なんでかって言う
と、「あたし自身」を愛してくれる男性を探
してるから。
 あたしは、出会い系で必死に誠実そうな人
を探した。やっと見つけた人に、あたしは言
われた。「じゃ、写真見せて」あたしは、ど
きどきしながら一番写りがいいのを送った。
 彼は、開口一番言った。
「やっぱり自信あるだけのことはあるねぇ。
美人過ぎて何か鼻につくよ・・・。俺こうい
うの大嫌い。」
 あたしは思わず叫んだ。「顔に自信があっ
て何が悪いの~!悪いの~!」

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家族

Black short short

 あたしんちは、素敵な3LDKのマンショ
ンだ。パパはハンサムな銀行員で、ママは綺
麗な専業主婦。パパは毎日7時に帰ってきて、
ママの作ったオリーブとバジル入りのトマト
ソースのパスタを食べる。あたしは、英語の
得意な優等生だ。
 でも、あたしは知ってる。パパが日曜日は
こっそりカラオケボックスで知らないお姉さ
んと逢ってること。ママが、キッチンにブラ
ンデーを隠して飲んでること。そしてあたし
は、塾に行くふりして、繁華街で茶髪にミニ
スカで、色んな年上のおじさんからお金もら
ってること。
 ・・・あたしの眼には、だんだん3人が3
匹の海蛇に見えてきた。

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人形

Black short short

 俺は、可愛い一人娘を持った。ところが、
娘はある日突然口を利かなくなった。俺は
半狂乱になって、何とか名医を探して入院
させた。ところが、娘は病院で首をつりか
けた。あわてて退院させたが、誰とも話し
たくないというので、3年間部屋にそっと
しておいた。
 ある日、娘からメールが来て、「自立し
たい」と言う。俺は、新築のマンションを
最上階に用意した。するとなんと、娘はそ
こから飛び降りたいという。俺は、どうし
たらいいんだ・・・。自殺だけはさせたく
ない。俺はネットで相談を持ちかけたが、
誰も相手にしてくれない。
 この、壊れた人形をどうしたらいいんだ
・・・。どこの半端な医者にもかけたくな
い。誰にも渡したくない。そう、誰にも。

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エリート

Black short short

 俺は、何でもやってきた悪ガキだった。初
体験は風俗だった。次の女はサッカー場で青
姦してやった。3人目はデートレイプしたが
すぐ捨てた。次には女子高生と付き合った。
 女を見る目が出来てきた俺は、家事の出来
る従順な妻を手に入れた。そう、俺はいつも
うまくやって来た。
 それなのに。
 息子が、引きこもりになった。俺は言った。
「世の中に、乗り越えられないことなんてな
いさ」しかし、効き目はない。・・・こいつ
は真面目過ぎるんだ。
 だが。
 どう、本当のことを言えばいいんだ。俺は
今、信頼される優秀なエリートなんだ。
 やがて、息子はちゃちな犯罪で、あっけな
く警察に捕まった。俺は蒼白になった。そし
て初めて祈った。「神よ、お助け下さい」

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退屈

Black short short

 あたしの夫は、平凡なサラリーマンだ。時
々、ビールを飲んで1円パチンコに行く。風
俗には近づこうともしない。何故って、こづ
かいが足りないから。あたしはあたしで、1
98円のシャンプーで髪を洗い、時々レトル
トカレーで夕食にする。 
 そう、あたしたちは質素だけど幸せな夫婦
なのだ。
 なのに。
 何かが、退屈だ。
 あたしは、夜ポテトチップスを食べるよう
になった。ある日、出っ張って来たお腹を、
不愉快そうに夫が見つめているのに気がつい
て、あたしは初めて愉快になった。
 それから、コーラもがぶ飲みするようにな
った。
 体重は30kg増えた。居間で、ただ動か
ないあたしを、夫は絶望的な目で見ている・
・・。もっと、もっと、太りたい。

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告解

Black short short

 私は牧師だ。今日も、色々な人々が懺悔に
やってくる。「牧師様、今日も電車で痴漢を
してしまいました。お助け下さい」「神に祈
るのです。私は罪に無力です。お助け下さい
と」。
 「牧師様、今日もウィスキーを一瓶飲んで
しまいした。お助け下さい」「神に祈るので
す。お助け下さいと。そうすれば救われます」。
 「牧師様、今日も万引きをしてしまいまし
た。お助け下さい」「私ではなく、神に祈る
のです」。
 最後の信者が去ると、私はやおら祭壇を倒
して、裏にこっそり隠してある仏壇を開く。
そして祈る。「ご先祖様、今日も皆さんにあ
りもしないことばかり言ってしまいました。
お許し下さい」

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第1章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

澪は、頭がガンガンした。

「それでさ、家の親父がさ・・・」

目の前の、太った男が、楽しそうにビールを空けながら、父親の自慢話をしている。皆も、一見楽しそうに祝杯をあげている。

「伊藤芳樹君、『空想旅のそら小説賞』受賞乾杯」

「乾杯」

ゆすったお腹が目の前に突き出ている。

「僕、今度、筋トレをはじめまして」

「あら、いいじゃないの」

「家の親父、若い頃すごく筋肉ついてて、格好よくて・・・それで、俺も」

四十過ぎた男が、片田舎の文芸賞をやっと取って、一番に話しだす事が、「家の親父の若い頃はさ」ですか。・・・それがまた、神田の小さな模型屋のおやじの、思い出話と来ているから、流石に笑いたくても笑えない。

この男との、最初の会話が、「僕、実物大のガンプラ、静岡に本当に見に行ったんですよ」であった事を、澪は生涯忘れないであろうと思った。

「乾杯」

「伊藤君、乾杯」

ちぐはぐな格好の、30代を中心にした、女性の取り巻きが既に出来ている。どうして、あそこまで流行を無視した格好が出来るのか、澪には見当もつかない。・・・もっとも、これは男性陣も同じである。いい年こいて、天野喜孝Tシャツ着るな、つの。

一人だけ。

澪の目を引く人物がいた。

その人は。

澄んだ目をした、鼻の横にほくろのある女性で、目立たないが洗練された格好に、そぐわない大きなキャリーバッグを下げて、この胡散臭いパーティー会場に入って来た。

(五代明希だわ)

澪にも、他の客にもすぐに分かった。

「はじめまして」

彼女は、はっきりした発音で言った。他の客も、慌てて言った。「はじめまして」

(すごい。・・・本来、主賓である筈の女性が、どうやったらああいう謙虚な挨拶が出来るんだろう)

澪が、考える間もなく、彼女の姿は、まるで地上から1cm上を滑るように、会場の奥へ行く。・・・まだ、浮かれていた伊藤芳樹が、ようやく気がついて、慌てて挨拶をした。

「五代先生、はじめまして」

「おめでとうございます、伊藤さん」

五代明希は、何の衒いも無く、伊藤に笑顔を向けた。

「ムービー撮っても、いいでしょうか」

澪は、内心顔をしかめた。この、最新機器がどうしても好きになれないのだ。・・・しかし、五代明希は普通に微笑して言った。「どうぞ」

他の客も、携帯のシャッターをカチカチと押している。あんたら、季節外れの蛍狩りにでもきたつもり。

などと、考えながら澪はこの女性の、英国のマナーハウスの主のような風情に魅かれていた。

「あなた、はじめまして」

「こちらこそ、光栄です」

しまった、かえって生意気だったかしらと思いながら、澪はこの女性に挨拶を返した。気がつくと、五代明希は澪の射るような視線を、訝しげに、しかし興味深そうに見つめていた。

「あなたは、菱沼先生のところの・・・」

「そうです、受講生です」

澪は、負けず劣らずはっきりした発音で言った。「何を、勉強してらっしゃるの?」

「ええ。アメリカの小説の、19世紀から20世紀の歴史を」

「そう」驚いたように、五代明希は言った。

菱沼先生が、和服のまま、片手にバイキングの皿を持って近づいて来た。

「こんばんわ」

「こんばんわ」

「先生が、一番粋な服装ですのね」

他の、客も近づいて来た。

「この先生に、何を習ってるの?」

「・・・難しい、お話を」

「ああ、そう」客は、気が抜けたように言った。

澪は、気を取り直して言った。「先生、お招きありがとうございます。私、新米なのに」

「いや・・・」

「先生」伊藤が、近づいて来た。「そろそろ、お開きに」

時刻は10時を回っていた。



11時を過ぎてマンションにつくと、澪は一人で玄関の2足のスリッパに「ただいま」と言った。・・・この1ヶ月間、そうしてきたように。

母は、3年前から別居している。祖母は、その1ヶ月後、後を追うように亡くなった。父が、「家を売ろう」と言いだしたのは、3ヶ月前の事だ。

澪には、もう身内はいない。

親切な、父についている介護ヘルパーさんが、時折手伝いに来る他は、全く持って気儘な生活をしている。・・・ただ一人の弟は、高円寺の小さなアパートで、子どものいない暮らしを奥さんと8年前からしている。

カーテンを開けると、隣のマンションの灯が見えた。澪は、五代明希のサインの入った、最新のコミック本を部屋の隅の本棚にしまうと、ベッドに身を投げた。

都会の夜は、まだ明るい。

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第2章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

咽が、乾いた。

澪は、冷蔵庫からアイスティーを出すと、氷を入れたグラスに注いで一気に飲み干した。それから、スリッパをつっかけた素足のペディキュアを眺めながら、フリスクを片手で出して頬張った。

2年間続いたフィアンセとは、彼の姉との同居が原因になって別れた。

「家族って、大切だろう。・・・どうして、君はお父さんの介護をしないの?」

「私は、『お父さん、お誕生日おめでとう』と言えないから」

そういった澪を、フィアンセの和夫は、何とも言えない嫌悪に包まれた目で見た。

ああ、そお。

私は、デスペラードだから。

僕の両親はもう亡い。姉と、同居して欲しいんだ。

いやよ。

僕は、生命保険に入ったんだ。毎月、5千円を支払っているんだ。君のために。

ああ、そお。

アディユー。

澪は、もう一人の男の事を思い出していた。・・・正確には、甥だ。澪とは19才離れている。

祖父の法事で出会った澪を、最初に口説いてきたのは甥である鷹士の方だった。・・・澪には、黒がよく似合う。これは、嫌いだった母親譲りだ。

最後まで、わざと二人で残った教会の待合室で、黒いタイトスカートの中に、手を入れてきたのは鷹士の方だった。

「悪い子ね」

「悪い、年頃ですから」

鷹士は、悪びれもせずに澪のスカートのファスナーを、器用に降ろすと、ストッキングをこれまた器用にくるくると巻き下げた。

「ここ、感じるでしょう?」

「陳腐な事、言わないの」

「あ、とか、言って下さいよ」

「聞こえるでしょう?・・・私に、恥をかかせたいの?」

「ええ、もちろん」

「・・・・・・」

「やっぱり」鷹士の目は、きらきらと光っている。

若い。綺麗な指だ。

それから、二人は3回関係を持った。・・・和夫は、何も知らない。鷹士に、女性に対する暴力癖がある事を知ったのは、2回目だった。

「いい?女に暴力を振るうくらいなら、もっともっと出世なさい。そして人を窓際に飛ばし、愛人を作って捨てなさい。・・・それが、大人のすることです」

「はい、叔母さん」

「澪、と呼びなさい」

「いやだ」鷹士は、ふくれっつらをした。

「叔母さんだから、感じるんだもの。いけない事だから、燃えるんだもの」

「仕方のない子ね」

「もっと、叱って」

「・・・・・」

「叔母さんの方が、子どもみたいですよ」

そうかも、知れない。

澪の母親は、澪に「女性の常識」を、一切教えなかった。

料理や洗濯や、掃除は、大きくなったら本で覚えなさい。男の事は、自分で体で寝てみて学びなさい。

イエス・マム。

そんな、澪と母親の一種の共犯関係が崩れたのは、もっぱら和夫の嫉妬のせいだった。・・・あの時、「君と母親は共依存関係だ」とか、言っておきながら、何故今ごろ原家族と暮らせ、と?

君は、恩知らずだ。

ああ、そお。

・・・澪は、うるさいことを言わない年下の男が、いつも気に入っていた。鷹士が、アメリカに留学した後、澪は、いつの間にか、バーチャルで男を漁るようになっていた。

東大出の両親に囲まれ、家中の書棚に囲まれて育った澪にとって、「リアルの世界」とは、いつも危険に満ちたものでしかなかった。

バーチャルなら。

4才の時から、大人の文学全集を読みこなしていた勘で、男の質はすぐ分かる。・・・金と地位を持った男の匂いも、勘で嗅ぎ分けられる。

”ブルガリ”を”ブル狩り”と、わざと変換し間違いの上で、相手をビビらせること。

平気で、1流ホテルのスイートをねだった後で、すっぽかすこと。

5億のマンションに住む、という誘惑を、あっさり聞き流すこと。

どれも、朝飯前、以前の事だった。

バーチャルは、澪にとって基本的に「安全な領海」だったのだ。

あの、男に会うまでは。

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第3章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

次の朝、アルコールの空中の飛沫で痛くなった頭を抱えて、澪は近くのスタバで、高校時代の親友の聡子と会っていた。

「これ、返すわ」

少し遅れた澪を、待っていた聡子は、クレームブリュレコーヒーを飲みながら、いきなり澪の「お土産」の、五代明希のサイン本を突っ返した。

「え・・・?」

「要らないの。・・・これは、もらっとくわ」

もらっとく?

聡子は、(つまらない)と言う顔をしながら、澪の行きつけの店で、特注したピンクと黒のパワーストーンを手首に嬉しそうに巻いた。

「私ね」

「え?」

「今度、パートに出るのよ。・・・マンション、もう、嫌なのよね」

ああ、そお。

「娘さんは、どうしてるの?」

「それがねぇ」聡子は、ため息をついた。「毎月、団地暮らしの頃から、1万2千円かけて習わせてきたバレエなのに、全然ダメなのよ。・・・日本人の骨格が、全部矯正されると言うから、やったのに」

ああ、そお。

「困っちゃうわね、どうフォローしたらいいのか」

「フォロー?」

「でもね」聡子は、身を乗り出して言った。「今度、東京の塾に、あの子をやらせるの」聡子の目は、誇らしげに輝いていた。「あなたも、ずっと東京の塾に通ってたんでしょう?」

はいはい。

それですか。



マンションに帰ると、聡子が転居見舞いにくれたピンクの薔薇が、いつの間にかドライフラワーになっていた。ゴミ箱に、投げ込もうとして澪はやめた。

ドアのチャイムがぴんぽんと鳴った。

「ただいま」

ヘルパーの、杏子さんは、いつも「ただいま」と言う。

「お帰りなさい」

「あっという間に、秋になったわね」杏子さんは、手際良く食材を冷蔵庫に詰め始めた。

「ねぇ」

「何?」

「ありがとう」

杏子さんは、ふっと微笑った。「何をいまさら」

「最近、何読んでるの?」

「東野圭吾が大好きね。あと、北方謙三よ。」

ふうん。

『悪人』と言う映画を、澪も最近見た。出鱈目だ、と思った。・・・自分をレイプした男に、女が尽くせる訳がない。

でも。

「お味噌汁、作ろうか?」

「任せるわ」

鯖の塩焼きと、豆腐とほうれん草の味噌汁は、美味しかった。

「コーヒーにする?紅茶にする?」

「コーヒー」

「今度の豆は、安くてまずいわね」

少し、落ち込んだ澪が、テーブルに突っ伏して待っていると、杏子さんの携帯が鳴った。

「いやねぇ、お父さんよ」

けたたましく鳴る携帯を取って、一通り話し終えた杏子さんは言った。

「お父さん、空気が読めなくてホントにいやになる」

「どうしたの?」

「娘は元気ですか?明日、私のところ来てくれるんですか?だって。・・・すぐ近くにいるのに、『落ち込んでますよ』なんて、言えるわけないじゃない」杏子さんは、コーヒーを取り上げて言った。

「家の家族、空気読めないよね」

「いい、人達なのよ。・・・でもね」

二人は、それきり黙ってコーヒーを飲んだ。「さて、帰るわ。明日は、来ないからしっかりしてね」

「はい」

「また明後日」

「またね」

澪は、杏子さんを見送ると、ドアのチェーンをかけて、ため息をついた。・・・私は、40を過ぎて子どもなんだろうか、大人なんだろうか。

(色々あるよね)

(色々あるよ)

こんな風に、毎日の、夜が来る。

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第4章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

その晩も、澪はチャットに向かった。

「ハイ、かず」

「やぁ、元気にしてる?」

「ふふ」

たわいない会話が、過ぎてゆく。・・・そこに、突然割り込みが入った。

「俺の、関東20の部屋に来てくれよ、美玖」

強引な男だ、と澪は思った。美玖と言うのは、もちろん澪の源氏名だ。

「いいわよ」

澪は、すぐに退屈なかずをうっちゃって、関東20に向かった。「ハイ、奨さん」

「奨でいい」

「簡単ね」

「・・・簡単なのは、あんただろ、美玖」

「え?」

「いつも、つまんない男を漁ってるの見てたよ。・・・俺と、付き合わない?今までにない男とさ」

澪は、きつい口調で言った。「あんた、何様だか知らないけど」

「え?」奨が、聞き返す。

「こんなとこにいる男って、あんたもそうじゃない。・・・どこが、他の男と、違うの?」

「美玖さんよ、俺は人間様だから」

「あたしは、神様を探してるの。じゃね」

澪は、白けてチャットを切った。・・・奨と言う源氏名からして、気障過ぎると思った。ふざけてるわ。

しかし。

次の晩も、その男は現われた。

「美玖」

「なれなれしいわよ」

「他の男には、簡単に体を投げ出してるのに、俺のどこが気に食わないんだ」

「私、男は基本的に気に食わないの」

「ほぉ・・・」奨は呻った。

「ただし」澪は言った。「あたしの中に、入って来た人は別。その人は、その瞬間だけあたしの神様」

「くだらないね」奨は言った。「俺は、神様になんかなりたくないしな。・・・あんたとは、縁がなかったよ」

「ちょっと待って」澪は言った。

「え?」

「なんか気にいったわ。・・・アドレス、教えて」

「いいよ」

「・・・どっかの将軍みたいなアドレスね」

「俺、そういうの好きなんだよ。・・・おかしい?」

大河ドラマの見過ぎじゃないの、と澪は思ったが、そこまでは口に出さなかった。「気が向いたら、メールするわ」

「あんたのそういうとこ、好きだよ」奨はふっと嗤ったように思えた。「俺のすごいとこ、だんだん分かってくるさ。じゃ、な」

・・・くだらないメル友が一人増えた、としか、その時澪は思わなかった。



一週間、経った。

観葉植物の綺麗に映える、新しい街中の木目調のクリニックへ向かった澪に、ドクターは、大きなPCを備え付けたデスクのある大ぶりの診察室で、言った。

「そろそろ、抗不安剤を抜いてもいいんじゃないのかな」

「はい」

「君は」若く見えるドクターは言った。「何でも、自分の中にため込んでしまう。生きた感情も何もかも。・・・抗不安剤を抜くのは、その不安と対峙することですよ」

「はい」

「大丈夫かな」

「・・・出来ます」

「雄々しいね。・・・じゃ、今週から減らします。無理は、しないように」

YES。

「ありがとうございます」

澪は、深々と頭を下げると、診察室を後にした。眼鏡をかけた看護婦が、澪のスリッパを片付けた。・・・澪は、大きく深呼吸をして、近くのコーヒーショップでブラックを1杯飲んだ後、ドラッグストアで深紅のマニキュアを買って、家路に向かった。

(・・・逃げるのはきらいよ。私は、いつも戦っているのが好き。)

(負けそうになったら)

(私には、いつも、バーチャルがある。あの、居心地のいい深海が)


・・・深海にも生き物がいて、PCの青い画面の向こうで、密かに誰かを狙っている。まるで、獲物を喰らおうとするように。

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第5章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

白と黒でデザインされたマンションに、帰り着いた澪は、1錠減った白い錠剤を、懐かしく思いながら、洗面台で残りのデパスを飲んだ。・・・それから、歯を磨くと、アベンヌの石鹸で、軽い日焼け止めを落として、薬用の化粧水をぱしゃぱしゃとつけた。

澪は、化粧を滅多にしない。すぐ下目蓋に滲むマスカラも、ハンカチに染みの付くファンデーションもあまり好まない。・・・いつも、薄い櫻色の日焼け止めをつけて、唇にグロスを塗る以外は、ほとんど顔は飾らない。



3日後。

いつになく、思いがけず沈んだ気持ちを抱えた澪は、奨を呼び出していた。

「私ね・・・」

「え?」

「何だか、このままニンフォマニアになりたくないと、思う」

「らしくないねぇ」

「そう、思うけど・・・」澪は、気づかぬ内に泣いていた。「馬鹿だって思うでしょ?」

奨は、言った。

「『ショーシャンクの空に』って見た事あるか?」

「ないわ」

「見ろよ」

チャットは、切れた。澪は、言われた映画を検索した。・・・それは、あまり澪の好みではなかったが、あらすじを追う内に興味が出て来た。

次の日。

「美玖」

「見たわよ」澪は言った。『ショーシャンクの空に』

「俺は」奨は言った。「エド・ケンパーと酷似した家庭環境に育った」

「・・・」

「しかし」奨は続けた。「自分で色々勉強して、ああなりたくないと学んだんだ。・・・あんたには、昔の俺と同じ匂いがする」

「そう・・・」

「だから、惹かれた」

澪はいつしか、激しく泣いていた。水滴が、いくつもPCのキーボードに毀れた。

「わたし・・・」

「うん」

「色んな男性を、誘惑しては最後に、取り返しのつかない程傷つけてしまう。・・・まるで、相手のアキレス腱を切るように」

「うん」奨は言った。「そう、思ったよ」

「わたしね」

「うん?」

「あなたのような人を、待っていたのだと思う」

「それは、買い被りすぎだよ。俺は、あんたの言う通り、今でもここに居るような男だ」

「ごめんなさい」

「俺さ」

「え?」

「あんたに言われて、子どもと暮らしたいと思ったよ」

「子どもいるの?」澪は、思わずつぶやいた。

「照れるなぁ」奨は言った。「そんなに意外かな?・・・子供って、言っとくけど天使でもなんでもないぜ。憎たらしいんだ。きったないんだ。虐待に走る気持ちすら分かるよ。だけど、気がつくと自分の一部になってるんだ」

「そう」

「なってるんだよ。・・・」

澪には、奨もPCの向こうで、泣いているのが手に取るように、分かった。

「つらいわね」

「自分の事、心配しろよ」奨は、嗚咽を抑えているようだった。「今日は、おやすみ」

「おやすみなさい」

澪は、チャットをログアウトした。・・・PCを離れて、洗面台で、ぐしゃぐしゃに濡れた顔を洗って、鏡を見ると、少し輪郭が柔らかく老けた気がした。それは、今までにない新鮮な感覚だった。

(私でも、誰かの母親になれるのだろうか)

20才の頃から安定剤を飲み過ぎている澪には、子どもは持てない。奨の痛みは、本当には分からない。でも。

(祈ってみようか)

(祈ってみようか)

(あの、人のために)

(今だけは)

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第6章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

次の日、折悪しく父が来た。

父は、挨拶と言うものをしない。・・・人に対する、気遣いと言うものをしない。

「このクッションは、少し紅過ぎて派手だな」

そう、文句を言いながら、父は澪の好きなソファにどっかりと座った。

ふん、大きなお世話。

「これが、今月の生活費だ。足りなければ、言うように」

ああ、そお。

「澪、この珈琲は苦すぎるし、私は、クリームが苦手なんだよ」

「・・・すぐ、そこの評判の店で買って来たのだけれど?」

父は、澪の言葉を無視して、クリームを汚く口につけながら、ア・ラ・シュークレームを頬張った。

「また、来月来る」

2度と、来ないで。いつも、生活費は振り込んでって、言ってるのに。



その夜、いつになくいらいらした澪は、奨にメールした。

「馬鹿。馬鹿。馬鹿」

「・・・どうしたんだ」

「父が、来たの」

「それと俺と、どういう関係がある」

「・・・ごめんなさい」

「あのなぁ」奨は、少し声を荒げた。「俺には子どもがいる。そういう不安定な感情は、危険なんだ」

「・・・引き取ったの?」

「そうだよ」

奥さんとは別れたの、と聞きかけて澪はやめた。

「俺、怒る時は怒るし」

「そうかなぁ」

「怒るよ。・・・お祈りしてれば、事が解決するって思ってる奴にはね」

「・・・」澪は、絶句した。

「別に」奨は続けた。「あんたが、何人男を引っかけようが、俺は気にしない。どんなに淫乱でも、俺には関係ない。ただ・・・」

「ただ?」

「あんたが嫌っている父親も、いずれ死ぬ。あんたが好いているヘルパーとやらも、いずれ死ぬ。その時、どうやって暮らして行くつもりだ?」

「それは・・・」

「選択するのは、あんた自身なんだよ、美玖」

チャットは、ログアウトされた。

(口説いてるの・・・?)

(いや、そんな人じゃない)

(隙さえあれば、私を取って喰らう男だ)

でも。

私は、愛し始めているに違いない。この、男を。


3日後。

クリニックで、例の若いドクターは言った。「感心しないね」

「え・・・?」

「アダルトチャットで、知り合ったと言ったね」

「そうですが」

「もう、その人との交際は止めなさい」

NO.NO.NO.

「はい」

澪は大人しく頷くと、診察室を出た。看護婦は、眼鏡の奥から、澪をちらっと見ると、請求書と処方箋を渡した。看護婦は、よく見るとグラマーな胸を、白衣に詰め込んでいた。

近くのスーパーで、黒いバレエシューズのイラストレーションのついた白い長袖のTシャツと、ハーゲンダッツのクリーンティーとラムレーズンとバニラの詰め合わせを買った後、ケンタッキーフライドチキンで、ツイスターセットを澪は軽い昼食にした。

その後、すぐ近くの白い薬局で澪は聞いた。「また、薬が減ったようですが」

「先生が、説明なさいませんでした?」

「されましたけど・・・」

「一日、6錠までなら飲んでも大丈夫です」

6錠。

その夜、澪は思い切って白い錠剤を溜めて、夜6錠を一気に飲んだ。

(眠りたい)

(眠りたい)

(もう、誰かを待って、緊張して生活するのに、疲れた)

急に、眠気が襲ってきた。澪は、深海に潜水するような心地よさを感じながら、ベッドに深く横たわって電話を取った。

「さよなら」

それは、どことも分からないDVホットラインの番号だった。

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第7章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

澪が気がつくと、7~8人の制服の人間が、広いLDに陣取っていた。

「私・・・」

「何を、飲みました?」

「デパス3mg」

澪は即座に答えた。救急隊員らしき男が、血圧を測った。「大丈夫ですが、誰か御親戚を呼びます」

「いやです」

「いや、と言われても」警察官は単純に言った。「お身内を、呼びますよ。誰かいないんですか?」

ふ、警察のお世話になるのは2度目だわ。

「すぐ、近くのマンションに父が・・・でも、いやです」

「何故ですか?」

「私を、20年間病院に入れておいた人です」

警官は、顔を見合わせて言った。「それで・・・」

澪は、叫ぶように言った。「いい、PSWに当たって、1年間のグループホーム暮らしをして、やっと手に入れたこの自由なんです」

「これまで、頑張ってきたんでしょう?」警官は、呟くように言った。

「はい」

「貴女は、とても興奮している。・・・お父さんを、呼びますよ」

澪は、観念して待った。

20分ほどして、父親は現れた。

「家の娘が、どうも・・・」

「そういうことでなくてですね」警官は、一語一語はっきり言った。「ここに、2、3日泊って下さい。娘さんが落ち着くまで」

「しかし」

「お願いしますよ」警官も、救急隊員も父親をじっと見つめた。「お願いします」

「・・・分かりました」父親は、腰を低くして言った。

澪は、警官と救急隊員達を見送ると、ドアを閉めた。父親は、途方に暮れたように、ハンチング帽を玩んでいた。

「帰りたければ、帰れば?」

「そうはいかんよ」父親は、言った。「警察に、叱られる」

「ふぅん、警察は怖いんだ」

「当たり前だろう」父親は、声を荒げた。澪は嘲るように叫んだ。「誰も怖くないんじゃないの?いつも言ってるじゃない、俺ほど偉い男は日本にいないって」

「そこまでは言っておらん」父親は怒った。「わしはただ、小さなバラック会社を、1部上場させたといつも言っているだけだ。・・・誰もがわしを尊敬する。お前だけが、何故、嘘でもいいから馬鹿にしたような口調が止められないんだ」

「止める、ですって?」もう、薬で痛む頭の事も忘れて、澪は叫んだ。

「人を、烏のなく僻地の病院に、20年放っておいた人を、尊敬?ですって?」

「放っておいたんじゃない、入院だ。お前はおかしかった」

「おかしくもなるわ」澪も絶叫した。「あそこの病院の、洗濯機の中では猫が死んでるのよ。その死骸を片付けた後、またその洗濯機でブラジャーを洗うのよ」

「落ち着きなさい」

「あそこにずっと、入れられていたら」澪は続けた。「私は、狂いっぱなしだった。50になっても60になっても、ガス台の栓のひねり方も分からないままだった」

「澪」

「私を、人間扱いしてくれたのは、PSWの福山さんだけよ」

「また、福山病か」

「帰って」澪は、クッションを父親に投げつけた。「帰ってよ。・・・帰ってよ。で、なかったらどうするか私、分からない」

「分かった・・・」父親は、折れた。「この床で、寝ろと言うのかね?」

「・・・クローゼットに、杏子さんの昼寝用の布団があるわ」

「それを」

「勝手に敷いて、寝て下さい」澪は言い捨てると、父親をLDに残して、寝室のドアを思い切り閉めた。


次の日。

杏子さんは、いつものようにやってくると、いきなり土下座した。「私が悪かった、澪さん」

「杏子さんは、何も悪くないわ」

「昨夜の、呂律の回らない電話、誰からか気になっていたのよ」

「だから、悪くないってば」

「この子の我儘なんです」父親が、割り込んだ。

「黙っててよ!」

「澪さん」杏子さんは、冷静に言った。「警察の言う通り、2、3日お父さんに居てもらいなさい。私は、身の振り方を考えるから」

「やめて」澪は金切り声をあげた。「やめないで」

「お前は錯乱している」父親が、再び割り込んだ。「私が、いる」

「・・・」

「お医者さんに、よく相談するのよ、ね?」杏子さんは、さっさとダウンを着た。「私は、もう行くわ」

ドアはぱたんと閉まった。

最悪の3日間が始まった、と、澪はガンガンする頭で思った。

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第8章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

次の朝。


父親は、意外と早く起きていた。「澪、喫茶店にでも行くか」

澪は、ジーンズに黒いヒートテックに、グレイのモヘアのセーターを被って、青いフェイクのムートンを着た。父親は、らくだ色のダウンで、玄関で不器用に靴を履いた。

二人は、黙って一番近い、オープンカフェに向かった。

「私、ピザトーストセット」

「私は」父親は一拍置いて言った。「小さなコーヒーと、フォンダンショコラと言う奴を」

店員は言った。「エスプレッソですね、かしこまりました」

間もなく、食事が、運ばれてきた。・・・父親は、震えそうな手で、エスプレッソを少し飲んだ。澪は、ピザトーストにかぶりつきながら、思った。

(この人にも、老いと言う物がやって来ているのだ)

父親は、フォンダンショコラで、少し舌を火傷したようだった。「澪、ゆっくり食べた方がいいぞ」

(うるさい、なぁ)

二人は、それっきり黙って、コーヒーを飲み干した。「1050円です」・・・父親が、くたびれた茶色の財布から、1000円札を抜き出した。それから、澪に言った。「50円玉、ないか」

澪は黙って、50円玉を自分のコーチの財布から出した。

外は、寒かった。

「これから、どうする?」

「私は、クリニックと買い物に行くわ」

「一人で、大丈夫か」

(大人だってば)

「大丈夫です」澪は、もう歩きだしていた。父親は、取り残されたようにぽつんと、暫く耳を掻いていた。


クリニックに着くと、1時間ほど待たされた。澪は、「アエラ」に目を通した。・・・他には、女性週刊誌と、少年ジャンプしかなかった。

「先生・・・」

「困ったね」ドクターは、はっきり言った。「お父さんと、暫く暮らしなさい」

「でも」

「君は」ドクターは言った。「ODするほど、精神的に追いつめられている。・・・今は、肉親と一緒にいなさい」

はい。

澪は、外の冷たい空気を吸うと、薬局で、いよいよ減った薬を貰って外に出た。繁華街を、歩いていると何とはなしに涙が出てきた。

(私は、結局親から金をせびりとる乞食なんだろうか)

(奨に、会いたい)

奨に惹かれたのは、彼にも家庭の記憶がなかったからだったのだ。・・・エド・ケンパーの母親は、彼を地下室に閉じ込めたと聞いたことがある。

(私には、家庭と言うものの記憶がない)

澪は、いつしか激しく泣いていた。幾人かの通行人が、訝しげに振り向いた。


マンションにつくと、父親は暖房を強にして、ソファーでうつらうつらしていた。

「・・・夕食、何にする?」

「出前でも何でも、取りなさい」

澪は、釜飯の出前のダイヤルを勝手に回した。「ビビンバ釜飯、2つ」「あと40分、かかります」

父親は、耳が遠くなっているらしかった。「何を、頼んだ?」

「ビビンバ、好きだったでしょう」

「今は、高血圧で塩気の多いものは避けているんだよ」

「頼んじゃったもの」

「まぁ、いいだろう」そういうと、父親は再び眠り始めた。・・・澪は、寝室に戻るとPCを開いた。

奨。

奨。

「なんだ」返事は、あった。

「私、きのうデパスを飲んだわ」

「それで?」奨は冷静に答えた。「どのくらい?」「0.5mgを6錠」

「・・・そのくらいでは、死なないよ」

「心配はして、欲しいのよ」

「俺には、もう俺の生活があるんだ」奨は答えた。「誰も、いないのか?」

「・・・父親が、いるわ」

「良かったじゃないか」奨は言った。「仲良く、しなさい」


その夜、澪は寝つかれなかった。・・・気がつくと、父親もまたソファーで寝込んでいた。

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第9章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

二日目。

澪が、例によって昼近く起きると、もう父親はいなかった。・・・代わりに、短い書置きがあった。

「4時に、私のマンションで宅急便を受け取る。遅くなる」

ま、いっか。

澪は、冷凍してあったフランスパンをトーストしながら、レタスをちぎって、胡瓜を切り、プチトマトを添えた。ベーコンを炒めて、フライパンから取り出して、今度は卵をチーズとスクランブルし、コーヒーを淹れた。

トーストを齧り終わると、澪はいつものようにPCを開けた。ユーチューブを出鱈目に検索していると、ジェーン・フォンダの「黄昏」が見つかった。

音楽は、この上なくよかった。・・・しかし、ヘンリー・フォンダの偏屈な顔を見ていると、澪は憂鬱になった。気がつくと、澪はふくらはぎを、ジェルネイルで尖らせた爪で引っ掻いていた。

(自傷行為だわ・・・)

澪は、ふとチャット仲間の雅人の事を、思い出していた。・・・雅人は、もちろん「仲間」などとは、思っていない。澪の設定では、澪、いや美玖は年上の夫を持つ、欲求不満の人妻と言うことになっている。雅人は、美玖を「俺の奴隷」と呼んで憚らない。

(時間、潰しよ、ただの)

澪は、ぼんやりと、雅人との以前の会話を、思い出していた。

「僕が、君の父親に似てるって?」

「そうなの。・・・父は、政略結婚で私を、20も年上の男に・・・」

「なるほど」雅人は、得意げに言った。「君の父親も、俺も、君の肉体を踏みにじって踏みつけ抜く男と言う訳だ」

YES.

・・・しかし、澪こと美玖が、いや雅人も、だんだんこの「遊び」に飽きた。・・・雅人は、ネットの向こうで、女性を操るだけで、満足するタイプらしかった。

(だから、選んだんだけど)

20も年下の、鷹士の方が、まだしも勇気があったと言えるだろう。


澪が、PCを切ってうつらうつらしていると、チャイムが鳴った。

「杏子さん」

「来て、いいのかどうか、迷ったのだけれど・・・」杏子さんは、忙しくスーパーの袋をもう空けながら言った。「お父さん、私がいないと無理だっておっしゃるのよ」

「ドクターは?」

「お父さんが、電話して許可を取ったらしいわね。・・・ごめんなさいね」

「杏子さんがいないと、私も困るわ」

「よかった」杏子さんは、胸を撫で下ろしたように言った。「さて、今日は魚の日よ」

「あの人、辛い鮭しか食べないんじゃないかしら」

「ご名答。・・・澪さんには、甘塩の買ってきたわ」

「いつも、ごめんなさい」

澪が、レンジの火をつけようとすると、杏子さんは言った。「いいの、いいの、座ってて。・・・疲れてるんだから」

(実の母親でも、こうはしてくれないだろう)

澪の思いには構わずに、杏子さんは両袖をたくしあげて料理を始めた。と、またチャイムが鳴った。

「お父さんよ」

「・・・そうね」

澪が、ドアを開けると、父親は呟くように言った。「鷹士のことだが」

「え・・・?」

「あれを、留学させたのは、わしだ」

「勝手な・・・」

「どっちがだ」父親は、ぶつぶつと言った。「鷹士が、こっそりわしに泣きついて来たんだ。『このままでは、俺の将来は滅茶苦茶になる』と」

「自業自得でしょ」澪は、冷たく言い放った。「あれは、私の最初の男だったのに」

「ふん」父親は言った。「まぁいいさ。・・・わしも、若気の至りで色々したからな。ああ、杏子さん、どうもありがとう」

「どういたしまして」杏子さんはあっさり流した。「さて、焼けたから私は帰ります」

「さよなら」

「また明日」


・・・澪と父親の2日目は、こうして暮れた。

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第10章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

3日目。

澪は、いつになく早く目が覚めた。・・・パジャマにガウンを引っ掛けてリビングに出ると、父親は、寒そうに暖房を全開にしていた。

「あのね。ここは、床暖房があるから、25度にエアコンをつけなくっても大丈夫よ」

「教えてくれなきゃ、分からん」父親はぶつぶつ言った。「澪、だらしない格好をしていないで、顔を洗って着替えなさい」

澪は、黙って洗面台で顔を洗って、すっかり隈の出来た顔を見た。

(もう、全然「休憩」になっていないわ)

ジーンズと、紫のフリースを着て、上にズッカのニットをはおった澪は、言った。

「いい加減に、帰って」

「そうはいかんよ」

「もう、3日経ったでしょ」

「・・・夕方には、帰るさ、自分のマンションに」

それきり、澪と父親は、黙って昨夜、杏子さんが用意してくれたサラダとハムとチーズに、デニッシュパンを食べた。黙り込んでいる澪に、父親はふいに言った。

「何が気にいらないのか、言ってみなさい」

「全部よ」

「全部じゃ分からん」

「いつも、『分からん分からん』って」澪は、また叫び出した。「弟には、そんなこと絶対言わないのに」

「あいつは、可愛い」

「・・・」澪は絶叫した。「私は、可愛くないの!?」

父親は、慌てて訂正した。「可愛いに、決まっとる」

「可愛い筈ない」

「・・・」

「可愛い筈ない!可愛い筈ない!私は一度も、可愛がられたことなんてない!」

「小2の時、一緒にO公園に行ったじゃないか」

「それだけ、じゃない!・・・いつも、その話ばかり!20年間、S病院にいたことはどうなのよ?」

「・・・」

「私だって、娘だったのに」澪は繰り返し叫んだ。「あなたは、父親らしかったことなんて1度もない!」

「1度も、はないだろう」

「だからO公園の話でしょ。・・・あの時だって、私は楽しくなかった。お父さんが、最初で最後に家族を連れていった公園だったけど、私はただ脅えてた。いつ、叱られるかと・・・」

「澪」

「私は、いつも叱られてばかりだったじゃない!」

「・・・」

「褒める時だって、いやいやそうに、『お前は頭がいいからT大にきっと入れる』って・・・。空気読めなかった私は、それを真に受けて、受験勉強ばかりしてた」

「・・・」

「そうすると、『弟は、出来ないけど可愛い』って、あの人がいつも言った」

「実の母親を、『あの人』呼ばわりするのは、やめなさい!」

「どうせ、出てった人じゃない!」

「・・・あれからわしは、血圧が上がって堪らんのだ」

「言っときますけどね」澪は、すごんだ。「あの時、お母さんを出ていかせたのは警察よ!私じゃない!私じゃない!」

「・・・病院を出たお前の容態が、あんまり悪いからだ」

「何でも家の不都合を私のせいにしないでよ!」

澪は、もう泣いていた。父親は、咳払いして言った。「澪、大声を出すのはやめなさい」

「命令しないで!」

「あきれたよ」父親は言った。「もう、わしは行く」

「勝手にすれば、いいでしょう」

澪は、リビングのドアをばたんと閉めると、ベッドに突っ伏して泣いた。

奨。奨。奨。

あなたは私の、父親だった。

不器用な、ノックがあった。

「澪」

「・・・」

「泣いているのか」

「・・・そうだけど?」

「わしが、悪かった」

「・・・」

「一緒に、朝飯を、最後まで、食べよう」

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第11章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

「澪」

「・・・いやよ」

「お前は、すぐ怒る。・・・そうすると、わしはどうしていいのか分からなくなる」

澪は、黙って起き上がって、ドアを開けた。

「・・・ケーキが、食べたい」澪は子どものように言った。

「ケーキだな」父親は言った。「この辺に、店はあるかね?」

「コンビニのでいいのよ」

「わしは、好かん」父親は言った。「確か、薬屋の横に小さな惣菜屋を兼ねた店があったな。・・・ちょっと、行ってくるよ」

父親は、鍵を開けっぱなしにして出て行った。澪は、ドアを閉めて思った。

(ケーキか)

(一度も、そんなもの自分から買ってきた事ない人が)

15分ほどして、父親は小さな箱を抱えて帰って来た。

「まだ、あまり品がなかったがな」箱には、小さなロールケーキが2切れ入っていた。

「・・・コーヒーでも、入れるわ」

澪は、コーヒーメーカーにドリップシートを引いて、粉を計量スプーンで計って入れた。やかんで、水を入れると、コーヒーメーカーはしゅんしゅんと音を立て始めた。

「・・・コーヒーなんぞ、淹れられるようになったんだな、澪」父親は、呟くように言った。

「これは、グループホームのおかげよ」澪は言った。「皆の分まで入れると、お手当がでるの。さて、食べましょうか」

小さなケーキは、フルーツが沢山入っていて美味しかった。

「澪、詩はまだ書いているのか」

「・・・最近は、小説よ。勉強の段階だけれど。詩は、S詩人会で書いているわ」

「あの、J先生が立ちあげた所か?」父親は、少々驚いたようだった。「そうよ。・・・どうして、知ってるの?」

「わしは、J先生の所で、息子さんの家庭教師をしていたからな、大学生時代」

「そう・・・」澪は、少々驚いた。

「J先生に、わしは、『無量なるもの』と言う言葉を、教わった」

「無量なるもの・・・?」

「『人知を超えたものは、人知を超えたものにまかせなさい』と言う意味だ」

澪は、思わず呟いた。「ハイヤーパワー・・・」

「それは、なんだ?」父親は、聞いた。

「福山さんが、言っていたの」澪は答えた。「人知を超えたものよ」

「ふん」父親は言った。「福山さんも、たまにはいい事を言うじゃないか」

それっきり、二人は黙ってコーヒーを飲み干した。

「さて、わしはそろそろ帰るぞ」

「・・・私も、洗濯しないとどうしようもないわ」

「わしの分はいい」父親は、慌てて言った。「杏子さんが来たら、TAXYに全部積んで帰るよ」

「じゃ」澪は言った。「そこのソファにでも、座ってて」

澪は、洗濯機に洗剤と漂白剤を入れると、ダウニーを柔軟剤入れに入れた。洗濯機は、勢いよく回り始めた。外は、いつのまにか燦燦と日が降り注いでいた。

(朝だ)

(ようやく、朝が来た)



夕方、杏子さんはいつものように言った。「ただいま」

「お帰りなさい、杏子さん」

「ご主人」杏子さんは言った。「澪さん、何でもできるようになっていて驚いたでしょう?」

「まぁ、な」

「まぁ、じゃありませんよ」

「杏子さんのおかげよ。・・・杏子さんが、何でも教えてくれたから」

「それだけじゃないわねぇ」杏子さんは、明るく言った。「やっぱり、1年間苦労したからよ」

「ふふ」

「私は、悪い事も教えてるしねぇ」

「なに、それ」

「・・・押し売りの撃退法とかなら、ありがたいことです」父親が言った。

「澪さんちはねぇ」杏子さんは言った。「いい人揃いだから」

澪と父親は、顔を見合わせて渋く笑った。

「澪」

「何?」

「・・・しばらく、私は午前中だけでも、来るよ。それで、杏子さんが午後に来る」

「分かった」澪は、素直に答えた。「先生に、相談してみる」

その夜は、杏子さんの揚げた、小海老と玉葱と人参と、茄子とピーマンの精進揚げだった。

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出会い

にがくてあまい午後

暑い、夏であった。

あたしは、ふつーに就労支援所で働いてるふつーの障害者だ。

ふつー、でもないかも知んないのは、毎日真面目にやってないとこと、だけど毎日真面目に小説を書いてるとこだ。

けいちゃんは、そこの指導員だ。

一年前に、けいちゃんは実習に来てたはずだ。・・・でも、あたしはその当時、付き合ってる彼氏がいてけいちゃんのことはよく覚えてない。

覚えてるのは、当時髪が長かった、けいちゃんらしき人が、「男にメール二通続けて出したらダメ」って、忠告してくれたっぽいことだけだ。・・・そのけいちゃんらしき人はもう四十才で、色んな恋愛したようなことをつぶやいていた。

けいちゃんに再会したのは、一年後だった。けいちゃんは、PSWの試験に合格して四月にここに正職員として来てたのだ。・・・でも、あたしは当時落ち込んで支援所をさぼってたので、けいちゃんの面接を受けたのは夏の初めだった。その頃、あたしの小説はブログランキングのトップを走ってた。

けいちゃんは、ちょっとはにかんだ様子で、「僕大学の時ずっと図書館にこもって小説書こうとしてたんですよ」とか言った。それからちょっと悔しそうに、「まぁ岡本かの子を目指してください」って言った。・・・あたしはその細い目が気に入った。

けいちゃんは、それから髪をバサッと切った。

当時、就労支援所は法律が変わって、もう障害者の居場所じゃなくなってた。根性で、健常者のように働くことを目指す場所になっていた。だけど、けいちゃんの目の優しい感じと、目の下の小さいあざは変わんなかった。

けいちゃんは、多分あざのことを気にしてたのだろう。けども、あたしはそのあざが好きだった。・・・それが、けいちゃんを障害者の人に対して優しくしてる、根っこのように思えたからだ。

けいちゃんは、あたしが早く帰ると「さみしいな」って言ったし、時々、皆の打った残りの讃岐うどんをくれた。本当は、指導員はそういうことしちゃいけなかったのかもわかんない。

けいちゃんは、お盆の前に突然休んだ。「体調崩してるのよ」と、他のスタッフは言った。・・・でも、あたしには周りに気を配るから疲れやすいけいちゃんのことはわかったけど、責任感が強いけいちゃんが二週間も休むのは理解できなかった。

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第12章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

その年は、何事もなく明けた。

若く見えるドクターは、澪と父親との同居に大いに賛成、した。・・・新年の2日には、弟夫妻が、珍しく時間に遅れずに、マンションにやってきて、落ち着いた澪を見て、驚きながらお節を食べて帰って行った。

9日に、澪は近くのベローチェで、グループホーム時代の親友の蓉子と会っていた。

「それで?」

「私は11時に起きるし、1時に寝る。・・・父は6時に起きて、9時には自分のマンションに帰るし、また5時に来て11時に寝る。ほとんど、すれ違いよ」

「そおか」蓉子は、一番安いブレンドを啜りながら言った。「でも、澪ちゃん落ち着いてるよ」

「そうでもないのよ」澪はため息をついた。「こっちのマンションの方が、新築だから、父も気に入っちゃったみたいで・・・。居つく気みたい」

「リビング、広いの?」

「まぁね。・・・パーテーションで区切れるから」

「金持ちだねぇ、相変わらず」

「・・・分かんないよ」

「何が?」

「・・・苦労もあるってこと。結局、あの父と暮らすなんて」

「そんなもんだよ」

「え?」

「誰だってね」蓉子は言った。「自分の一番嫌いな、自分の一番醜いと思ってるものに、生かされているんだよ」

あ、と澪は内心で声をあげた。・・・みるみる内に、グループホームで二人だった頃の記憶が後から後から出てきた。もう、ないと思っていた生理がまた始まった時のように。

「澪?」

「・・・なんでもない」

「あたしもさ」

「え?」

「養子、欲しいよ」

「義理の・・・子ども?」

「馬鹿ねぇ」蓉子は言った。「婿のことだよ。あの、鬼くそばばあと暮らして行かなきゃね」

「そっか」

それきり、澪も黙って抹茶ラテを飲んだ。「生理、まだある?」

「もう、時々1ヶ月おきになるね」

「あたしも」

「あたしも澪も、体丈夫だから、更年期障害は平気さ」

「かも」

「だよ。そう思わなきゃ、だめだ」

「・・・子ども、生まれたってどうせ、蹴飛ばしたくなっちゃうし」

「そうそう」蓉子は、あっさり立ちあがった。「そろそろ、行くわ」

「ばいばい」

「ばいばい」

自転車に颯爽と乗り込んで、振り向きもせず蓉子は走ってゆく。その後ろ姿を、澪は満足感を持って見送った。

(分かってる)

(分かってる子だ、蓉子は)


澪が、マンションに帰りつくと、杏子さんはもう来ていた。「お帰りなさい」

「ただいま」

「杏子さん、クリスマス楽しかった?」

「ものすごく」杏子さんは、北欧風のレストランの光景を、眼前にするかのように言った。「プレゼントも頂いちゃったし、ものすごくいい想い出になったわ」

クリスマスに、澪のプレゼントした黒のベロアに、シルバーと偽パールのネックレスをかけた杏子さんは、まだまだ若かった。父親と並んだところは、本物の夫婦のようだった、と澪は思った。

「わたしもよ・・・。今日は少し疲れたから、部屋で休むわ」

「そう、なさい」

部屋のドアを閉めると、澪は思った。

(あの二人、結婚するのかしら)

(くだらないなあ)

(でも)

(生かされている)

(一番醜いと思うものによって、生かされている)

(いい、言葉だ)

・・・澪は、いつの間にかチャットを辞めていた。

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試練

にがくてあまい午後

けいちゃんがいない就労支援所は、試練の場だった。

ちょうど、TVではうるさいくらいロンドン五輪を放映してた。頑張れニッポン。元気になりました。

あたしは、けいちゃんが休んだ次の次の日、なんとなく殺気立ってるスタッフの前で、うっかりビール代わりのパインジュースを片手に、「シューローシューロー、イエィ」と言った。

たちまち弾丸は返ってきた。

「あのね。・・・体の調子が悪かったり、お金があって働かない人のことを、悪く言ってるんじゃないのよ。働くのは、社会に参加するのでいいことだけど、差別はよくないもの」

なら、そういうこと言うなよってあたしはのどから出かかった声をぎゅっと押し込んだ。・・・もう就労した、うすぼんやりした単純作業にピッタリな子が、うきうきと近づいてきた。

「あたし、初めて稼いだお金でジュース買ったんですう。暑いから、皆さんで飲んでください」

ビターシュエップスとかなんとかいうその炭酸飲料には、148円と言うラベルがついたまんまだった。あたしたちは、四人でそれを湯呑に注ぎ分けた。・・・苦かった。あんたの爪の垢の味がするよ、煎じていただいてますと言おうとしてやめた。

「ほんとにえらいわねぇ」

あたしは、五日間続けてビーズ細工をしたので、少し目がかすんでぼおっとしてた。目がかすむのは疲れのせいだけではなかった。

「帰ります」

そういって、あたしは就労支援所のドアを荷物をひっつかんで思いっきり開けた。

仕方ないのだ。

今、緩衝剤であるけいちゃんがいない。・・・みな、自分の感情を持て余してそれを手近な人にぶつけているだけだ。

でも。

マンションに帰って、窓を開け放ってベッドで寝転んでいたら涙が出てきた。けいちゃんがいないとあたしのストレスは二倍三倍になる。痛いくらいに、人の悪意が体の芯にじーんとしみた。

ふいにメールがちゃららららと鳴った。編集部の河嶌さんからだった。

「ご本の定価は九百円に抑えることが出来ました。強い、ご希望でしたので」

嬉しくって、涙は止まった。あたしの初めての初めての自費出版なのだ。そう、けいちゃんにも絶対絶対読んで欲しい。

けいちゃんの目の下のあざにキスしたいなって、あたしは急に思って枕に顔をうずめた。外では入道雲が動いている。

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第13章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

その、新年初の、小説講座での事だった。

少し、電車に乗り遅れた澪は、グレーのボーダーのTシャツの上に、英国旗のプリントされた丈の短めのトレーナーとGパンを着て、これまた短い黒いダウンジャケットで、池袋の交差点で地団太を踏みながら信号待ちをしていた。と、後ろから肩を叩く人がいた。

(誰?)

澪が、少しむっとして振り向くと、そこには菱沼先生が、居た。

「こんばんは」

「こんばんは。・・・私も、少し遅れてね」

信号が青になって、交差点の人混みはまた正常に動き出した。澪は、ここぞとばかりに目をきらきらさせて、言った。

「先日、お渡しした小説ですが・・・」

「ああ、あれね」菱沼先生は欠伸をした。「発想は、面白い。群を抜いている。ただ・・・」

「ただ?」

「死んでいるんだ」

「・・・」

「感情がね」菱沼先生は、無情に続けた。「人間にありうべき、混沌がない。整理されすぎているんだよ」

「そう、ですか・・・」

「伊藤君の、今度の短編を読んで御覧なさい。何か、感じるところがある筈だ」

先生はそう言うと、澪には目もくれず、道路の先をすたすたと歩きはじめた。



澪は、その晩、奇特にも丁寧にしたエマルジョンのファンデと、ブラウンのアイシャドーと漆黒のマスカラと、ピーチのチークと深紅のグロスを、かなり落ち込んだ気分でオリーブオイルで落とし、化粧水をつけなおして乳液とクリームを厚めに塗って、エアコンの乾燥に備えた。気を取り直して、伊藤のHPを開くと。・・・成程、新しい短編がそこにはあった。「春の朝」。

題名はどうかなぁと、澪は思いながらも、珍しく謙虚な気分で、その短編を読み始めた。・・・気がつくと、父親が後ろからPCを覗きこんでいた。

「やめてよ」

「いや、何を勉強しているのかと思って」父親は、頭を掻きながらソファに戻った。

「・・・例の、小説講座の人よ」

「ファザコンの、か・・・」

「それが、そうでもないみたい」澪は続けた。「何となく、感情に揺れがあるわ」

「お前も、少しは大人になったな」

「そお?」

「・・・わたしは、大家族から出奔して、核家族を持って、失敗した」

「・・・」

「しかし」父親は続けた。「お前が、嫌っているその伊藤君は、大家族で暖かいものに囲まれて育ったんだろう。・・・だがね、そこには色んな事があるんだよ」

「色んな事・・・」澪は、フィアンセだった和夫の事を、ふと思い出した。「どんな?」

「戦わねば、ならんことがね」父親は、呟いた。「もう、寝るかね」

「ええ」

澪は、PCを閉じた。

(戦わねばならないこと)

(カウンセラーを親代わりにして来た私には、分からないこと)

(色んなこと)

澪は、その晩は、枕を抱いてあれこれと和夫の「ゲンカゾク」「カイゴ」「オタンジョウビオメデトウ」といった単語を、脈絡なく思いだしている内に、いつしか眠りについていた。・・・横に、新しい原稿用紙を置いたまま。

(なんだろう)

(なんなのだろう)

(私の、本当に書きたいものは、なんだろう)

都会の闇は、容赦なく押し寄せて来る。・・・気がつかない内に、初雪はしんしんとマンションを包むように、降り始めていた。

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第14章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

次の日曜日、澪は神田に出掛けた。

思ったより、大きくまたきちんと整頓された古本屋まで、何とか辿りつくと、伊藤が店番をしていた。

「こんにちわ」

「こんにちわ」伊藤はそういうと、礼儀正しく会釈をした。「何か、コーヒーでも買って来ましょうか?」

「いえ、さっき和ラテの缶を買ったので」

「そうですか」伊藤は、すぐ前のPCに向かうと、自分の作品を早速プリントアウトした。

「どうです?」

「面白かったです。・・・もうブログ、拝見しました」

「こりゃ、参ったな」伊藤は頭を掻いた。「なんで、僕のブログ分かりましたか?」

「センセイが・・・菱沼先生が、伊藤君の『群青の轍』というブログはいいって、ぼそっと仰っていたのを思い出して」

「そうでしたそうでした」

「私・・・実は、まだテキスト形式で、原稿を送る方法がよく分からなくって」澪は素直に言った。「ここに、長編のファイルを持って来たんです。お荷物になっちゃいましたね」

「いや、いいんです。それが、僕も読みたかった」

「はい」

伊藤は、少し痩せたように見えた。「どうか、されました?」

「いえ」

「あはは・・・実は、ジョギングを始めまして」

「すごいですね」澪は、呟いた。

「この、古本屋始める時は、父と関ヶ原みたいな大喧嘩をしましたよ。・・・今も、アマゾンと言う強敵がいますからね」

「ええ」

「長いなぁ・・・」伊藤はファイルを開いて言った。「僕は、こういうのは学生時代以来だ」

「この辺は」澪はきょろきょろして言った。「馴染みのお客さんが多いんですか?」

「だんだん、そうなりましたね」

「いいですね」

「え?」

「私の住んでいる辺りでは、せいぜい挨拶をする程度です」

「都会は、どこもそうですよ」伊藤は苦笑した。「何もかも、カテゴライズされ分別されている。・・・ここも、近所のお客さんが集まる店ではなくって、趣味の同好会のようなものです」

「同好会・・・」

「そういえば」伊藤はファイルから目をあげて言った。「笹木さんの新しい短編、読みますか?」

笹木とは、同じ菱沼先生の受講生だ。・・・目立たない感じではあるが。

「いいのかな・・・」

「いいでしょ」伊藤は、またささっと2枚プリントアウトした。「皆で、切磋琢磨してるんだから」

その短編は、興味深かった。「R.チャンドラー風ですね」

「僕もそう思いました。・・・ああいう世界のダミーを書く人は多いけど、ここまで本質的に似てるのはちょっと驚きです」

「笹木さん、確かベンチャー企業に・・・」

「ええ」伊藤は頷いた。「ああいう世界は、日本の現代の最先端を行くんでしょうね」

「・・・」

「和田さんは?」

「ああ」伊藤はちょっと額に皺を寄せた。「ちょっと、シャーロッキアン的ですよね、ああいう講座にカシミヤのセーター着て来ると言うのは」

「あはは。・・・その筈です。あの方、一流企業のエンジニアを退職してここに辿りついたんだから」

「やっぱりねぇ」伊藤は言った。「僕の小説、メールで批評して下さいってお願いしたんですが・・・」

澪は、くすっと笑った。伊藤は再び頭を掻いた。

「そんな笑い方、いけませんよ。・・・僕らは外れた所にいるから書けるんです」

「・・・それは、そうですね」

「僕、ちょっとこれは一度には読めないな。・・・今度の講義の時、お返しする形でいいですか?」

「もちろん」

澪が頷くと、丁度客が一人入って来た。澪は慌てて、コートとマフラーを取り上げた。「では」

「また、お元気で」

澪が外に出ると、空気は冷たかったが日差しが暖かかった。神田の街はどことなく古本の埃で白っぽかった。

(それぞれが)

(それぞれの場所で)

(戦っているのだ・・・負わされた荷物と)

電車に乗ると、サラリーマンが携帯でつまらなそうに遊んでいた。空いた席の一つに、身を埋めて澪は思った。

(一番)

(一番、傲慢でファザコンでみっともなかったのは)

(私自身なのかも知れない)

空は、もう抜けるように青かった。

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失敗

にがくてあまい午後

次の日、少し元気が出たあたしは、けいちゃんに残暑見舞いを書いた。

「一人で頑張って疲れてるような気がします。お元気で。お盆明けにまたお会いしたいです」

朝九時の郵便局で、絵手紙に五十円切手を貼ると、あたしは外に出た。・・・日差しは強かったけど、もう殺人的な暑さではなかった。自転車をぐるっとまわして、アスファルトを走って就労支援所についた。

しかし、ことは思ったほど簡単じゃなかった。

朝の打ち合わせが終わったところを見計らって、所長さんに、あたしは絵手紙をおそるおそる渡した。

「近藤さんに、残暑お見舞い書いたんです。できたら、送ってくださるようお願いします」

自分でも、馬鹿なことやってるなぁとは思った。・・・こんなまどろっこしいことする前に、もっともっと早くに、けいちゃんのメルアドを聞き出しておくべきだったのだ。だけど、あたしはけいちゃんと二人きりになるチャンスを、なんとまだ掴んでなかった。あたしは空気を読むのがど下手なのだ。

所長さんは、文面をちらっと見て言った。

「この文面はどうかなぁ。近藤君は、盆が明けても出てこられるかどうかわからない。・・・せかすのはよくないからね。このはがきは、返しておきます」

やっぱり。

あたしはしょぼんとすると同時に、不安で泣きたくなってきた。けいちゃんの具合はそんなに悪いんだろうか。

もしかしたら。

心身ともに、この暑さで消耗しきってるのかも知れない。

それきりあたしは、苦手なパッチワークを一生懸命した。またぼおっと目がかすんできた。

(けいちゃん)

(けいちゃん)

(今、泣いたらいけない)

ふと、気がつくと手芸担当の、元木さんの顔が目の前にあった。

「どうしたの?そんなに根をつめて縫わなくてもいいわよ」

「・・・」

あたしは、ただ何かに集中していないと、泣き出しそうだったのだ。

「敦美さん、一人暮らしでぼっちだって気にしてたけど・・・。最近、明るくなったなって思っていたのよ。他の子だって、家に帰りたくて帰ってるわけじゃないし」

あたしは、はっとした。

「お父さんのことも、『ありがたいと思うようになった』って昨日言ってたじゃない。・・・もし、食事作らなくっちゃいけないんだったら、帰っていいのよ」

「・・・」

「家族って大事よ」

「・・・帰ります」

あたしはぎらぎらする陽光の眩しい外に出た。確かに、あたしには同居できる家族がいない。一家離散したのは二年前のことだ.

でも。

たぶん、我慢してるのはあたしだけじゃないのだ。

それでも出来るだけ家族連れを見ないようにして、自転車で道を飛ばした。けいちゃんは、生まれてはじめてあたしを大事にしてくれた人だったのだ。

その、けいちゃんが今いない。

だけどスタンドプレーはまずい。

ふと、思いついてあたしは文房具屋の前で自転車を止めた。

「色紙、二枚・・・いえ三枚ください」

寄せ書き。

皆で、けいちゃんにお見舞いの寄せ書きを送ろう、と思ったのだ。サインペンは支援所に沢山ある。

空気読めないあたしは、はっきりいって人望はない。・・・でも、けいちゃんは違うはずだ。仲のいい、食堂担当の子から口説き落としていけば、十人、いや二十人は多分集まる。

・・・それにけいちゃんはホントに、なんかのせいで就労支援所を無期懲役になってるのかも知れないと、あたしは当たる勘で思った。

労組運動、しなくっちゃ。


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第15章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

「それで?」聡子はオープンカフェで、カフェラテから目をあげて尋ねた。

「おかしいでしょ。・・・その臙脂色のカシミヤのおじさん、SFの批評に、『どうして犬をワープ旅行に連れてゆくんですか?』だって」

「おかしくないわよ」聡子ははっきりした発音で言った。「家の、旦那だってそうよ。理系の出来る男って、10年20年かかって、芸術に関しては頭がひからびてゆくのよ」

「ふうん」

「だけど、あんたも馬鹿ねぇ」

「え?」

「なんで、20年前にちゃんとした女子大に入って、そういう男捕まえなかったのよ。国立大なんかにむきになって拘ってさ。・・・今になって、奥さん付きのお爺さんと遊んでどうするのよ」

「そんな気ないわよ」澪ははっきり言った。「伊藤さんはいい友達だし」

「これだ」聡子は呻いた。「家の、娘とそっくり」

「え?」

「あの子、私と澪の中学落ちたのよ」

「で?」

「で、じゃないわよ!」聡子は声を荒げた。「折角の、付属なのに!あの子、地元の公立で全然平気なのよ」

「・・・」

「私が叱ると箸の上につまずいて、お盆落っことすし!バレエの発表会だって、あの決めのシーンでもっとゆっくり振り向きなさいって言ったのに!ああ、イライラする。・・・あれは、父親に似たのよ」

「可愛いって言ってたのになぁ」澪はジンジャーエールを啜った。

「女の子が可愛いなんて小さい時だけよ。今は、もう私の背丈追い越しそうなのよ。胸だってふくらんでくるし。・・・ほんと厭だわ」

澪は話題を変えた。「この間の、友チョコのお返しはつまらないものでごめんなさい」

「あら、いいのよ」聡子はにっこりした。「あのロベルタ・ディカメリーノのサンプルバッグでしょ。すごく気に入っちゃったわ。いつも、車の窓に置いてあるの」

「今、手作りのマフラーも編んでるんだけど・・・」

「ああ」聡子は右手を振った。「それは、写メだけで結構」

「・・・もう春近しだしね。そう」

「さて、私は行くわ」聡子は雄々しく立ち上がった。「さよなら」

「さよなら」

やれやれ。

頑張るなぁ。



澪は、くたくたになってマンションに帰りついた。今日は、父親は澪の苦手な叔父の相手をしに出掛けている。

薄い桜色の携帯をチェックすると。詩のサークル仲間の紗生からメールが一通来ていた。

「先日は、メール遅れてすみません。漫画のアシストで深夜になりました。さて、今度私の詩集が、M出版社から出ることに決まりました。3月3日です」

やったな、と澪は思った。

M出版社。

まだ無名に近いが、ネットで多くの新人の作品を、積極的に公募しているところだ。紗生は、その第1回の大賞を獲ったのだ。

澪は、炊飯器からご飯をよそい、味噌汁を鍋にかけ、豆腐とわかめを入れ、味噌を入れて一煮立ちさせて火を止めると、温泉卵器に卵をセットし、はちみつ入りの梅干しを冷蔵庫から出しながら考えた。

(今、大手の出版社はどこも硬直している)

(いつまでたっても、カビの生えた純文学を、少部数出すだけだ)

(優れたブロガーの作品も、中々出版には結びつかない)

いつか思ったこと・・・澪の、書きたいものとは?

(私が、真の独創性を初めて発揮できたもの)

(それは、菱沼先生の特訓で、書いた極短いショート・ショート)

澪はPCを検索した。あった。

「あなたの超短編小説を募集中。賞金10万円。大賞は、出版の可能性もあり。〆切り、4月30日」

(やってみなければ・・・私も)

(いや、やるんだ)

ガラス窓に夕日が反射している。・・・澪は、カーテンを半分閉めると、やかんで観葉植物に水遣りをし、ピーっと鳴った温泉卵器から卵を取り出した。

・・・質素でさっぱりした、夕ご飯を一人きりで食べながら、澪はオレンジ色の夕日を見つめて、いた。

(自由)

(20年間、渇望して得られなかった自由が、望んでいたものが今ここにある)

(精一杯、今を書こう)

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第16章

水面の鳥ーBLUEBIRD-

すっかり、やる気になった澪が、PCに向かってワードを開くと、けたたましく家電が鳴った。

(誰かなぁ・・・)

三分の一うんざり、三分の一あきらめ、三分の一いらいらした気持ちで、澪が受話器を取ると、聡子の声がした。

「なぁに?」

「実はね・・・」聡子は囁くような声で言った。「さっき、人が大勢いるところでは言いにくかったんだけど」

「ええ」

「家の子、実は呼び出されてるのよ」

「非行?」

「違うわ」聡子はきっぱり言った。「もっと悪いの。・・・言いにくいんだけど、ばらさないわよね?」

「誰にばらすの?」

「よかった。・・・実はね、家の子・・・その・・・担任がADHDだ、って言いだしてるの」

「発達障害・・・」

「いやね」聡子は少々声を荒げた。「それで、病気の先輩のあんたに、相談したかったのよ」

「何を?」澪は言った。

「だから・・・その・・・つまり」

「医者の紹介?」

「誰が」聡子はきっぱり言った。「そんな恥さらしな事しなくちゃいけないの?・・・私は、ただ、どこがどう間違っているのかはっきりさせたいだけよ。あの担任・・・何とか出来ないものかしら?ね?」

「私には、分からないわ」

「そう、言わないでよ。・・・あんまりだと、思うでしょ?」

「私には」

「何?」

「スタートラインからして、そもそも間違っているような気がするけれど」

「あらぁ」聡子は、普通を装っているが、激昂してきているのが手に取るように分かった。「あなたのような人に、言われるとは・・・ね」

「何が、言いたいの?」

「甥ごさんの鷹士君、中学の頃から女性経験あったそうじゃない?」

「それが何か?」

「やっぱり」聡子は言った。「遊ばれてたのは、澪サンの方だったって訳ね」

「・・・」

「何も知らない、赤ん坊さん」

「切るわよ」

「どうぞ」聡子は冷たい声で言った。「他のママ友に相談するわ。じゃ、ね」

澪は、受話器を置くと、クッションを思い切り窓にぶつけた。・・・観葉植物の鉢に手をかけようとして、流石に思いとどまった。

息が、切れている。

(そうよ)

(その通りよ)

(私は赤ちゃん)

(そして)

(モンスターペアレントの勝ち組の・・・聡子)

(あなたは私の両親と同じ道を歩んでいる)

振り向くと、きょとんとした父親がいた。「どうしたね、澪?」

「話したくない」

「お前」

「話したくないっ!」澪はクッションを父親の肩越しに投げた。「今日は自分の家で寝て」

「しかし・・・」

「うるさいってば!」

後ろから、杏子さんの声がした。「澪さん、とにかくお父さんにおあやまりなさいな。一体何があったの?」

「言いたくないっ!」

流石の、杏子さんもこれには唖然として、一旦黙った。

「男と女のことよ!それだけよ!」

「澪さん」杏子さんは毅然として言った。「ここに居られるのは、お父様のお陰でしょう?」

「今は誰の顔も見たくないの!」

「こりゃ、だめだ」父親は言った。「一旦、引きあげましょう。・・・澪、一晩頭を冷やしなさい」

二人は、振り向きもせず出て行った。・・・澪は、ソファに座って息を整えた。

(そうよ)

(その、通りよ)

(鷹士に本気だったのは、私の方・・・よ)

(気づきたく、なかった)

雨が、ざあっと降って来た。澪は、寝室に駆け込むとベッドで激しく泣いた。後から後から涙はこぼれて来た。たちまち部屋は暗くなってきた。

居間の、PCだけが暗い部屋の中で、青い光をを煌々と放っていた。

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